【前回の記事を読む】開業を目指し融資相談へ赴くも…銀行員が開口一番に放った衝撃の一言とは!?

東広島記念病院

リウマチ・膠原病センターを設立

開院日、待合室は朝早くから紺の背広にネクタイ姿の銀行員、製薬会社のMR、検査、医療機器、建築、その他もろもろの出入り業者が待合室の後方立見席をぎっしりと埋めていた。

9時過ぎには40~50人はいる待合室は患者さん並びにその家族でほぼ満席となり、私は胸をなでおろすと同時に、後ろに居並ぶ背広組も安心したのかいつの間にかいなくなっていた。先輩から初日が大切だと言われていたが、最高のスタートをきらせてもらった。

開業後の病院はまさに私が予想した以上の順風満帆であった。多くの患者が広島県全域はもとより、山口県、岡山県をはじめ、近隣県より多数来院し、待合室は常に満席で2~3時間待ちは当たり前であった。しかし、誰ひとり文句を言う患者さんはいなかった。病室も40床が100%稼働し、10名以上の入院予約待ちを抱えていた。

開業間もなくこんなこともあった。今だから言えることであるが重度の強皮症患者さんが4階の屋上出口付近で自殺をしていた。大騒ぎとなり、私は一通りの対応を済ませ現場に戻ると、そのあたりにいた多くの入院患者さんが「このことはなかったことにしましょうね」と私に声をかけてくれた。

こんな立派な病院を山名先生が私たちのために建ててくれたのだから、ここで躓かせてはいけないという患者さんたちの配慮だったのだろうか、大変ありがたく感じたことである。

国道の表通りに面した位置に広い駐車場を持ち、リウマチ膠原病専門病院とうたって病院を開業したのは全国でも私が最初であろう。リウマチは不治の病として社会全般が認識し、疾患に対する偏見が存在していた時代であった。

私自身の名前は患者間には広く知られていたし、他の2人のドクター青井克行先生と山口真弘先生3人で午前中の外来患者を終えるのに15~16時頃までかかっていた。昼食は診察の合間にパンをかじりながら頑張った。患者さんが長く待ち、おなかがすくので家内が近くのスーパーへ車を飛ばし、パンと飲み物を買い求め患者さんに配りつつ診療を続けた。

その状態が3年くらいは続いたと思う。誰ひとり不平をいう者はいなかった。これだけ多くの患者さんが来られると、その年の暮れに単年度赤字を出しただけで翌年から黒字化し、私は東広島市の長者番付の上位にランクされるまでになった。

開業する前にある先生から、病院の屋上に自殺台を置いた方がいいですよと言われ、本当に屋上に積み上げていたブロックを夜こっそり外したのも今となっては懐かしい思い出である。