この水俣病は、1960年代の日本の高度成長後、日本の各地で発生した公害の原点です。環境への影響を考慮せずに、工場から有害な物質を排水、排ガスした結果、海や大気が汚染されました。

日本各地で海や川は「ヘドロ」と呼ばれるどろどろな状態に変わってしまいました。その結果、海産物を食べる人間に病気が発生し、大気を吸う人間にはぜんそくが発生しました。また、大気の汚染から「光化学スモッグ」(日光によって大気中の化学物質が反応し、有害ガスを地上に降り注ぐ)も発生しました。

水俣病は後に新潟でも発生し、そのほかにも富山イタイイタイ病や四日市ぜんそく、川崎ぜんそくなどの公害が各地で発生しました。そうした社会情勢を受け、1970年代には各地で公害反対の住民運動が活発になりました。

1970年の第64回臨時国会は「公害国会」とも呼ばれ、公害対策基本法(1967年成立)の改正のほか、水質汚濁防止法、廃棄物の処理および清掃に関する法律(廃棄物処理法)などの6つの法律が制定されました。

また、大気汚染防止法や騒音規制法が改正されました。1971年に環境庁が発足し、1972年には自然環境保全法ができ、さらにはおよそ20年後の1993年、公害対策基本法を廃止して新たに環境基本法が制定されました。

写真を拡大 [図表]公害問題を巡る企業-住民間のやりとりと法令作成に至る流れ

公害問題を巡る企業と住民とのやりとりと法令作成に至る流れを上記[図表]に示しました。当初、廃液や排ガスに対する対策は、コストがかかり、収益にとってマイナスだと考えられていました。しかし、収益を追求して環境に配慮しない状況が続いたことに対して社会が反発するようになり、環境対策を行わない生産は規制されるようになりました。

その結果、有害物質を出す商品は消費者からも拒否され、「環境対策を施した商品しか売れない」状況がおのずとできることによって、環境対策を行う企業の売り上げや収益が伸びるようになったのです。環境対策を施すことを義務付ける法令ができるとともに、環境対策を行った生産が社会にも受け入れられて、企業における排水や排ガスの処理技術が進み、環境対策が重要な技術となりました。

なお、水俣病の原因となったメチル水銀ですが、メチル水銀は体のなかのアミノ酸システインと結合し、このメチル水銀―システイン結合体が必須アミノ酸のメチオニンとよく似ているため、体のなかに取り込まれてしまい、神経系が侵されるというメカニズムがわかってきています。

水銀は蛍光灯に使われていたり、いまだにアフリカなどで金の採掘に使われたりしていますが、水銀が蒸発して酸化水銀などの無機水銀に変わり、海に落ちると特殊な細菌の作用でメチル水銀に変わり、これが食物連鎖で濃縮されていきます。現在世界中の水銀排出を抑え、管理を進める運動が進んでいます。

※本記事は、2019年4月刊行の書籍『人と技術の社会責任』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。