割愛された『 』の部分はそれを感じさせる。ゲルニカとはスペインの北部のビスカヤ県にある「ゲルニカ」という小さな町だ。いわゆるバスク地方である。その町はスペイン内戦中の一九三七年四月二十六日、フランコ反乱勢力を支援していたナチス・ドイツの空軍(コンドル軍団というらしい)により無差別爆撃を受けて廃墟と化した。

当時フランスに居たピカソは、スペインの正当政権である人民政府側を支持していた。パリでピカソはゲルニカ爆撃を知り、パリ万博に展示する壁画作成を人民政府から依頼を受けたのを機会に、戦争による惨禍を訴えるためゲルニカを描いた。商がこうした事実をどこまで知っていたのか、自分の作品に政治的な意図を込めて描いていたのか本当のところは分からない。

彼の絵が、シュールレアリズム派と呼ばれる多くの画家達(サルバドール・ダリ、ジョアン・ミロ、パブロ・ピカソ等)の手法に近いと考えて、危険思想(穿った見方をすれば革命思想)だと特高は決めつけたのかもしれない。

「社会運動の状況」のレポートの末尾にそれらしいことが記載されている。私達には専門的なことは解明できないが、ともかく商は危険視される対象にされたということだけは紛れもない事実だ。

商の成長期を考えてみた。明治三十六年(一九〇三年)新潟県長岡で生まれ、未だ幼いうちに大陸に渡り、満鉄で駅長を務めていた父徳松の庇護の下、大正九年(一九二〇年)十七歳で日本に帰国するまで何不自由なく育った。そのことを考えると、国際都市大連で多くの外国人(主に中国人だろうが)に交じって青年期を迎えた。

当時の日本人(少なくとも広島では)に先んじてシュールレアリズム等欧州で芽生えた新しい風に触れる機会があったのかもしれない。そうした彼の多感な少年時代の背景が、彼の精神構造を作り上げたと仮定してみると、広島の危険思想の巣窟の主のように思われかねないあやしさを育んでしまったのかもしれない。今は、彼や当時の重苦しい時代背景を語る人達は、どなたも冥界に入っているので直接話を聞くことができないのが歯がゆい。