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(三)当時の大学医学部

昭和41年、医学部のインターン廃止・医局改革などの学生運動が、T大・K大を中心に全国的に広がり、Y大学もその闘争の渦に巻き込まれていた。各大学医学部の四年生は卒業後それぞれが自分の希望した大学に所属して医局に入局する。入局拒否している大学では、学生が自主的な組織を作って活動を始めていた。Y大学ではクラス委員会の代表が各病院を直接訪問し、研修やアルバイトの交渉をして大学に残る仲間の行き先を医局とは関係なしにまとめた。いわゆる医学部青医連(青年医師連合)闘争である。

沖田陽一は緒田啓子との付き合いが始まる大分前に、卒業後は故郷のG市のG大学にインターンをする申し込みをし手続きもすませていた。緒田啓子はY市出身で、当然Y大学の仲間と行動を共にするという。沖田は啓子を知って以来、G大学を断ってY大学に残るようにしようかと悩んだが、両親が卒業後は帰ってくるようずっと待ち望んでいる事を考えると、決断は出来なかった。又、啓子からのY大学に残ってくれという働きかけもなかった。

「私達は二人とも考える過程がよく似ているのかもしれません。相手の事をいつも考えてお互いに遠慮している。私は毎日一段と沖田さんが好きになる。何でも話せて私の殆ど全てをわかってくれる沖田さんに感謝しています。貴方は私にとって大切なすばらしいかけがえのない人であるのです。私が沖田さんの行動を待っているとしたらそれはただ一つ、Y大学に残ってくれる事でした。私から一度も残ってと頼んだ事はありませんが、貴方の御両親の事を考えるとそれはとても無理とわかるからです。お互いに信じて笑って別れる事が出来たらいいねと貴方は言うけれど、それも無理だと思います」(41年12月緒田啓子)

卒業後の拠点がG大学とY大学に別れてしまうかもしれないという事は、二人の心の底にひっかかる重い宿題であった。とはいえ、とに角まずは卒業出来るように猛勉強しなければならない。緒田啓子には故郷を離れ難い理由が沢山あった。

貧しい中、医学部まで行かせてくれたため、卒業して勤めるようになったら親に恩返ししなければならないと思い続けていた事。結婚はしない、独身主義だと言い続けてきて、親もその言葉をうのみにしているだろう事。更に、学生の身で男性と付き合うなんて、罪深い不真面目な事を親は許さないであろう。

「貴方は私を信念のある人間だと言って下さるけれど、私は信念を持って行動するという自覚はありません。私にはどうしようもない本能みたいなものがあって、それが私を引っ張っていくのです。そうしないととても生きた心地がせず、心がぐらぐらして身体までおかしくなるからそうするだけです。だから本能に流されて動く人間とでもいうのでしょうか。

ここで、本能と理性というものの関係を考えてみますと、私にはよくわからなくなりました。ただ私にとって頼れるのは理性ではなく、本能であります。何か事が起こって自分でどうするべきかという時は全て自分の本能に従ってきただけなのです」(41年12月緒田啓子)