03 神の存否が不明であるにもかかわらず、神の宗教は神の存在に依拠して構築されています。このことにより、神と宗教の関係は理屈の上では無効となり、無関係な関係になります。→神と宗教の関係の虚構性①

04 神の存在を仮定する神仮説によっても、神の言葉(啓示、預言、教え)は存在しません(第6章にその証明)。従って、神の宗教の聖典・教説は神の言葉で成っているものではなく、人間の考案による言葉を神の言葉と偽っているものに他ならないものであることになります。→神の言葉の不存在による神と宗教の関係の虚構性②

05 上記01~04により、神の宗教の主張する神に関わる教説の一切はその根拠を失います。

06 一方、「神という宇宙観」とは別に釈迦の発見による「神観念のない宇宙観」があります。この宇宙観は、宇宙の始まりという究極の過去には言及せず、目の前に在るあるがままの宇宙万物について、それがどのように移り変わっているのかということに関わっているものです。

07 01~06により、神の宗教であれ、神観念のない宗教であれ、「宗教の説く教えは全て人間の考案したもの」という認識が得られたことになります。

08 さて、宗教という系は神自体の他に、様々な証明不能や偽り等の要素で構築されていますから無効な系であるということになります。それらの要素は、大きくは、①人間の独り決め、②存在しない神の絶対的善(悪)、③存否・真偽不明の要素、④人間という生命体に矛盾しているもの、⑤運命や生得などの一切を苦と観る前提、等に区分できます。なお、これらにつきましては、第6章3に詳細です。

09 01~08から明らかになったことは全ての宗教は虚構であるということです。然るに、全ての宗教はこの虚構を真理・真実と主張していますから、宗教は妄想であるということになります。

10 人間は喜ばしくも空想・想像することのできる生命体ですから、虚構を虚構と認識しその上に心を遊ばせるということであるならば、それは人生を豊かにする意味もないではありません。しかし、宗教のように、虚構を真理・真実と主張するに及べばそれは妄想となります。ましてや、この妄想に人間界の現実を支配させることは正しいことではありません。虚構は静かに心の中で楽しむべきものであり、妄想は捨て去るべきものです。