【前回の記事を読む】「まだ一年も経たぬうちに、また一人、愛する人を喪った」…

永禄七年(西暦一五六四年)

容赦なく難儀は続いた。五月九日、薫風を浴びながら、多聞山城の居室の濡れ縁で儂がうとうとしているところへ、飯盛城の久通からの早馬が駆け込んできた。

「申し上げます。本日早朝、安宅冬康様以下淡路の御家来衆十八名が、飯盛城中にて、修理大夫(三好長慶の官途名)様により成敗されました」

瞬間には伝令が何を言っているのか、儂はさっぱり理解できずにいたが、「霜台様」という伝令の呼びかけに、耳を疑う現実に引き戻された。

「成敗された……とはいかなることか」

「安宅冬康様は御屋形様の病気見舞いと申されてご登城なされたのですが……」

伝令は詳細を語った。御屋形様の病気見舞いに安宅冬康は飯盛城に登城したのであったが、警護をする家臣の十八名ともども二之丸屋敷にある大部屋に通されたまま、そこに留め置かれた。使いの者が冬康の来着を告げると、何故か御屋形様は、十八名の家臣を引き連れた冬康を恐れて、そうされたのである。しばらくすると御屋形様は、「あの者たちは、私を殺しに来たのだ」と、急に騒がれて太刀まで手にする有り様で、御側衆を仰天させた。

「弟の分際で、この私を殺そうとは、浅ましき者どもよ」

と、人が変わったようにいきり立ち、挙句の果てに「皆殺しにせよ」と、お命じになられて、また騒がれたという。家老の金山長信は仕方なく手勢を率いて二之丸屋敷の大部屋へ行き、さすがに殺しはせず、冬康らに城外への退去を促したのであるが、一方的に謀反の嫌疑をかけられて承服できない冬康らと押し問答となり、冬康らが押し通って無理に本丸へ登ろうとしたので、金山は仕方なく兵を用いて冬康ら淡路衆十八名を(ことごと)く討ち果たした。

「馬鹿な」

思わず儂の口を衝いて出た言葉の後は、絶句するしかなかった。冬康は思慮深く温厚な人物で、人望もあり、決して謀反を企てるような人物ではなかった。なのに何故、押し通ってまで本丸に登ろうとしたのか?

「しまったっ」