三クール目の入院の日、和枝は血液、心電図、CT検査を済ませ病室に戻ってきた。浮かない顔をして。ベッドに横になって待っていた廉を、肘でぐいぐい押して隣に寝転び、「ねえ、いい話と悪い話どっちから聞きたい?」と、わざといたずらっぽく言った。

「悪い話かどうかは実際聞いてみなきゃ分かんないよ。でもいい話は後に取っておきたいかな」

「やっぱりそうだよね。じゃあ行くよ、悪い話から。高井先生から明日大事なお話があるって。だから連日の来院になって申し訳ないけど、廉にも同席してほしいんだって」

「分かった。明日も来るよ、もちろん」

「高井先生ったら『ちゃんとお会いしたうえで話したい』って、中身は教えてもらえなかったのよ」

「先生らしいじゃない。怖がらなくていい話だと思うよ、きっと」

「うん。取りあえず目の前のことをひとつずつやっていくわ、私。たくさん迷惑かけちゃうけど、でも付き合って!」

「当ったり前じゃん! そしたら和枝ちゃん、いい方の話って何」

廉は笑顔を向けてそう返事しながらも、高井先生の思わせぶりなひと言に動揺している自分が憎かった。

「美月ちゃんがヤマハのキーボードをプレゼントしてくれるんだよ」

目が生き生きと輝く和枝の笑顔はまるで天使だ、と思った。

和枝は病棟の南端の談話コーナーで椅子に腰かけ、テーブルを鍵盤代わりによく指ならしをしていた。

それを見ていた姉の美月は「キーボードが使えたらもっと中身の濃い時間が過ごせるはず」と思いついた。和枝から話を聞いた後、廉がすぐ病院側に使用許可と練習場所を貸してほしい旨を申し出たが、前例がないという理由ですんなり許可が下りない。

キーボードはヘッドホンと繫ぐため外に音が漏れ出す心配はないと説明し、重ねてお願いをすると、和枝が六階病棟に移ると同時に使用許可が下りた。

和枝は夕食後の一時間ほど、六畳くらいの多目的ルームを練習に使わせてもらうことになった。そして退院して自分のピアノに触るまでの間、「音のある」指ならしの時間を持てたことは、和枝にとってとても大きい収穫だった。

※本記事は、2021年9月刊行の書籍『遥かな幻想曲』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。