時を刻み始めた運命の砂時計

翌日の午後、私は6年目の先輩の指導下に胸水を採取した。男を座らせ、テーブルにもたれさせるようにして背中を露出、濁音界を定め、穿刺部位を決定した。今、思うと単にまっすぐに針を刺すだけのことなのだが、その頃の私には大手術にも匹敵する処置だった。

検査室に入る前に先輩が言った「肋骨上縁を狙え。下縁には血管があるぞ」、「胸膜は一気に通れ。痛ませるとショックが起こるぞ」という言葉を思い出し、私は汗だくになりながら針を進めた。

針は肋骨上縁を滑り、胸膜腔を捕らえた。注射器に血性液が吸い込まれてくる。私は注射針の根元をしっかりと持ち、1㎜たりとも動かないように力を入れていた。約20㎖の胸水が採取できた時点で先輩医師は「よし」と小声で言い、私は胸腔に空気が入らないように、電光石火、針を抜き去った。胸水が血性であることは悪性を暗示しており、2日後に返ってきた細胞診の結果はそれを裏付けた。

その週に行われた症例検討会では、患者が若く右肺摘除が可能な肺機能であること、胸膜以外に遠隔転移は認めないことから胸膜肺全剔術(ぜんてきじゅつ)を行う方針が決まった。治療方針の詳細は助教授があらためて夫婦に説明するようになっていたが、予め妻には概略を伝えようと考え、検討会の2~3日後に詰所の前を通りかかった妻を呼び留めた。

「お世話になっております」と言いながら、妻は深々と頭を下げた。

「いくつか検査結果が返ってきていますので、途中経過をお話ししておこうと思います、お座りください」

私は妻に椅子を勧めた。妻は突然の話にびっくりした様子で、しかし表情は変えずに椅子に座った。「入院以来いろいろと調べてきましたが、御主人の病気はあまり良くないものである可能性があります」

妻が息を呑む音が聞こえ、心なしか顔色が青ざめたように見えた。

私は続けた。「右肺に小さな腫瘍があるのですが、肺を被う胸膜を破って肺の周りに広がり、胸の水の原因になっています。先日採取した胸水からは異型細胞が見つかりました」

癌細胞と異型細胞はほぼ同義語なのであるが、一般の人にはニュアンスが異なって聞こえる。この時代、癌という言葉はできるだけ口にすることは避けていた。

「手術になるのですか?」

妻は搾り出すような声で尋ねた。この時点で妻の「手術するほど悪いのか」という認識と医師の「手術ができればいいのだが」という認識はすれ違っている。

「あらためて助教授から説明がありますが、手術の方向で考えています」

「癌でしょうか?」

妻がかすれた声で尋ねた。

「明らかな癌細胞ではありませんが、このまま置いておくと悪性になる可能性がある細胞が見つかっています」

この時点で妻の「何も病気はないか、薬で治る」という希望は消え、その前に「夫は重病であり、癌かもしれない」という現実が突き付けられた。

一瞬、辺りの空間が凍りついた気がした。

※本記事は、2022年3月刊行の書籍『南風が吹く場所で』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。