彼は続けて、「弟の斉田寛は本名を斎藤寛二といい、六人兄弟の僕が長男、寛二はそのすぐ下の弟でした。兄弟が六人もいると年の離れた弟妹たちとはそれほど一緒にいる時間が長くないものですが寛二とは年がくっついていたので子供の頃は特に仲良くしていました。

僕らの家は京都の東山のすそ野の、疎水の流れるいわゆる“哲学の道”沿いにありました。子供の頃は夏はその疎水で水遊びしましたが今は衛生上の問題もあり、遊泳禁止になっています。一方僕らの育った家の一部は父や祖父の作品を展示する斎藤記念館という美術館になり一般に公開されています。

弟は六人兄弟の中で一番やんちゃで、その辺ではガキ大将でよく喧嘩をして相手の親に怒鳴り込まれたり、自分も怪我して帰って来たりしましたね」。彼は遠い昔を懐かしむように言葉を切ったが再び続けて、

「ところで世間は僕らを京都画壇の二代続いた名門の息子と見ているかも知れませんが実態は名門どころか祖父は滅茶苦茶な人生を歩いた人だった。表向きは美人画で当代随一ともてはやされた京都画壇の人気画家だったが家計は火の車、破産して二度も執達吏(しつたつり)のお世話になるといった有様でした。

それをなんとか世間並みの家にしたのは僕らの父です。僕は父に似ていると言われますが弟は問題児の祖父に似ていたようです。隔世遺伝でしょうかね。でも成人して有名作家になって一家を為したんですから、あんな亡くなり方をしたにせよ、まぁ上出来な人生だったと思うことにしています」。彼は心なしかしんみりと言った。

斉田寛は兄が言うように京都で生まれ育った。出版社が発行している『二〇一八年度作家年鑑』によると彼の経歴は次の通りである。

斉田寛(本名・斎藤寛二)

一九六六年京都生まれ。父は日本画家の斎藤晴楓、祖父は同じく日本画家の斎藤鵬雲。W大文学部入学。仏文学を専攻する。そのかたわら文芸部に所属する。大学卒業後幾つかの文芸誌のアルバイトを経て二十七歳で文壇デビュー、私立探偵鳥海康介シリーズ第二作『心の旅路・ローマ編』(一九九四年)で出版社主催のEQミステリー大賞を受賞。鳥海康介シリーズはベストセラーになり、一躍流行作家になる。シリーズは二十三年間に二十五冊。五十代に入ってからは盗まれた美術品を古美術店主が探り当てる『月葉亭』シリーズを始める。自宅は千葉県白里海岸。家族は妻と長男。日本ミステリー作家協会会員、国際ペンクラブ日本支部会員、日伊友好協会名誉会員。

斉田夫妻は千葉の房総の海を見下ろす一軒家に居を構え、斉田氏は作家として円熟期に入ってこれから益々ペンを振るうかに見えた。そこへ彼を襲ったのがあの悲劇的な死だった。

斎藤潔は更に続けて、「でも僕らの人生の最初の災難は上の二人だけが小中一貫のカトリックのミッション系寄宿学校に預けられたことです。兵庫県の西宮、六甲連山の向こう側に学校はあった。しつけが厳しくて弟は神父さんに始終叱られていた。スパルタ式でね。やたらに山登りをさせるんですよ。

弟は成長してから丈夫になりましたが子供の時は喘息があって、あの学校は全く体質的に合わなかったようです。弟は二度学校を脱走しました。それで親はあきらめて近くの公立学校に入れ直しました。あとで弟は家にはお手伝いさんもいて僕らがいても差し支えなかったのに両親はどうしてあんなところにぶち込んだのかとひどく憤慨していましたよ。

僕ですか? 大人しくそのミッション系学校を卒業しました。今でもカテキズム(教理問答)を暗唱出来ます。家はどちらかと言うと神道とか仏教に近い家なのにね。まぁそんなことはどうでもいいんでしょうね、日本人は……」

※本記事は、2022年1月刊行の書籍『私の名前を水に書いて』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。