第二章 忠臣蔵とは何か

二つの芝居小屋

これまでの説明にもあるように『仮名手本忠臣蔵』を含め、『仮名手本忠臣蔵』自身が影響を受けたとされる主な作品は全て大坂道頓堀にあった竹本座と豊竹座という二つの芝居小屋で上演されていたことから、それぞれの芝居小屋としての成り立ちと発展の過程を確認しておく。

竹本座

竹本座は、浄瑠璃の一流派である義太夫節の創始者初代竹本義太夫が、貞享元年(一六八四)に開設した人形浄瑠璃専門の芝居小屋で、当時の芝居小屋はどこも厳しい経営状態に晒されていたが、元禄十六年(一七〇三)の『曽根崎心中』の大当たりで竹本座に限っては運営が安定したことで、座本の竹本義太夫は宝永二年(一七〇五)頃に同じ道頓堀界隈で興行に手腕を発揮していた竹田出雲に座本を譲り、自らは専ら義太夫として活動を再開する。

この頃に近松門左衛門が大坂に生活の拠点を移し、竹本座専属の座付作者となっている。寛延元年(一七四八)に『仮名手本忠臣蔵』が空前の大ヒットとなるが、直後に人形遣いと義太夫との間で内紛が起こるなど、その後の運営は安定せず、さらには歌舞伎の台頭にも押され、明和四年(一七六七)、三世竹田出雲の時に竹本座は廃業している。現在、道頓堀に架かる戎橋南詰に竹本座跡の石碑がひっそりと建っている。

豊竹座

初代竹本義太夫の門弟で、それまで竹本座で義太夫を務めていた竹本采女(うねめ)が豊竹若太夫と改名し、竹本座に遅れること二十年後の元禄十六年(一七〇三)に大坂道頓堀に浄瑠璃専用の芝居小屋として開設したのが豊竹座のはじまりである。以降竹本座とはライバル関係になる。

初代竹本采女は十五歳の頃から竹本座に出演し、大音が特徴の竹本義太夫に対して美声で人気を博した。豊竹座では早い時期から紀海音や並木宗助など錚々たる浄瑠璃作家を座付作者とし、『鎌倉三代記』『北条時頼記』などが大当たりし、大坂の道頓堀界隈では西の竹本座に対抗して東の豊竹座として人気を二分していたが、やはり歌舞伎の台頭とともに衰退し、竹本座が廃業するより二年前の明和二年(一七六五)に廃業している。

今回までの記事では浄瑠璃や歌舞伎などの芝居の発展を通して、江戸時代から現在に至るまでの忠臣蔵文化の伝承過程およびその変遷を紹介した。

写真を拡大 [図表]『仮名手本忠臣蔵』までの経緯
※本記事は、2019年12月刊行の書籍『忠臣蔵の起源』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。