- 5 公害から地球環境問題へ

1. 公害の原点となった水俣病

日本では、第二次世界大戦後、1960年代からテレビや冷蔵庫、洗濯機などの家庭電気製品、自動車など、生活用機器の生産と普及が急激に進む「高度成長」時代を迎えました。それとともに、工場から出る廃液による水質汚濁や工場からの煤煙、自動車からの排気ガスによる大気汚染など、さまざまな「公害」問題が全国各地に発生しました。

日本の公害問題を象徴する事件が水俣病です。水俣病とは、化学工場の先端を走っていたチッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生したメチル水銀化合物が工場排水とともに排出され、これが水俣湾・不知火海を汚染し、そこに生息する魚介類の体内に蓄積され、これを継続して多量に摂取した地域住民の体に蓄積して体のけいれんから死へと至らしめた疾患です。水俣病の発生メカニズムを下記[図表]に示します。

[図表]水俣病の発生メカニズム

(株)チッソは1908年に日本窒素肥料株式会社として設立され、当時の石炭化学の先端を行く企業で、1932年から水銀を触媒としてアセトアルデヒドを生産していました。

1956年4月下旬に、チッソ附属病院に特異な神経症状を示す5歳の少女と2歳の妹が入院し、5月1日水俣保健所に報告されました。これが「水俣病の公式発見」となりました。実は1953年12月から発生していた患者が54名おり、そのうち17人が死亡していることが確認されました。1957年以降、「水俣病」と呼ばれるようになりました。

水俣病は、手足にしびれや震えが起こり、視野が狭窄し、耳が聞こえにくくなるなどの症状から激しいけいれんを引き起こし、意識を失い、手足や体を激しく動かし、昼夜の別なく叫び声をあげ、壁をかきむしったりしながら発病から1ヵ月で死亡します。

水俣病の解明には、熊本大学の医学部の先生方が尽力しました。1959年7月に、熊本大学医学部研究班が「水俣病の原因は水銀化合物、特に有機水銀であろうと考えるに至った」と公表しました。実際、1961年にはチッソ内の技術者が工場排水にメチル水銀化合物が含まれていることを見つけました。しかし、チッソは水産庁からの要請があっても立ち入り調査を拒み、原因は有機水銀ではないと主張し続けました。

1968年9月26日に厚生省が政府の統一見解として、熊本水俣病について、チッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造工程中で副生されたメチル水銀が原因であると断定しました。1956年の発見から12年かかりました。

この水俣病の経緯を見ると、企業の技術者や工学系の技術者が事件の解明に積極的な協力をしなかったために原因の特定が遅れてしまったことがわかります。技術者に、「人間の安全・健康を第一に考える」という倫理が欠けていたのです。

また、企業は誠意を持って対処せず、町も企業城下町となっていて、大企業のチッソに向かって自由に意見を言える雰囲気がなく、漁業従業者に発生した病気を「奇病」としてその声が無視され、差別されてしまったため発見が遅れ、対処も遅れたのです。

※本記事は、2019年4月刊行の書籍『人と技術の社会責任』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。