【前回の記事を読む】侮ってはいけない子どもの「心の力」と「頑張らせるライン」

「子ども」の「100」を知ろうとする必要はない

教育者のなかには、「子ども」の情報を絶えず気にして、何かあれば根掘り葉掘り聞こうとする人がいますが、これが必ずしも良いこととは思いません。

「できるだけ『子ども』の情報を知って何が悪い」と思われるかもしれませんが、これは時として「子ども」の虚像をつくったり、「子ども」に対する先入観を持ちかねないという危険性が潜んでいるのです。

いろいろな情報を得ようとしているときの教育者の様子を見ていると、決してその「子ども」の本質を知ろうとする聴き方ではなくて、矢継ぎ早に質問したり、まくし立てて聞いていることが多いように思います。

結局は、その「子ども」の「100」を知るのではなく、その「子ども」のわずかな部分を自分たちの解釈しやすいように半ば決めつけて確認しているような、残念な結果となっていることがしばしばです。「子ども」の本質とはそんな浅い見方で見えてくるものではありません。

そして、その労力はもっと違った方向での「子ども」の捉え方に注いだほうがよっぽど効果的な教育ができるはずです。私は常々、「子ども」を見ていて気になることはよくありますが、そのことにすぐには飛びつきません。

若い頃は前述したように、「何でも聞いてやろう」とか、「噂の情報」を知ったもの勝ちみたいな偏った考えがありましたが、徐々に知った情報が勘違いだったり、時としてその情報の内容が変化していく場面にたびたび出会うようになり、「これは少し様子を見てみよう」という気持ちへと変化していきました。

「しばらく見守る」というのは「我慢」と「辛抱」と「勇気」がいりますが、それでも急ぎすぎることはあまり良くないと思っています。

ただし、その内容が生命や人権に関わることについては言うまでもありませんが、必ずすぐにでも確認しなければいけません。このことだけをわきまえてぜひ、ゆとりを持って「子ども」が見られるように考えてみてください。

「子ども」の本質を、こちらから捉えにいこうとするのではなく、滲み出てくるものを感じ取れ!