【前回の記事を読む】「我々の思考は、わずかな上っ面を意識の経験として擦過する」

「明晰なる無知」とアインシュタインの科学の仮説の位置づけ

アインシュタインによれば、自然や実在を「オーバーコート」に(たと)えれば、科学の仮説が立たされている認識論的関係は、「衣装(いしょう)戸棚(とだな)の番号」の関係なのである。素朴(そぼく)実在(じつざい)論者(ろんしゃ)たちのように、経験の直接性に訴えて、そこから仮説を、─「ビーフにたいするスープの関係」のように、“抽象”し、“帰納(きのう)”する余地はないのである。

明らかなのは、外的な経験世界との、認識上の直接的連続性の脱落(だつらく)なのである。換言(かんげん)すれば、我々の思考や概念は、外界という“感官(かんかん)体験(たいけん)の全体”から元来が論理的(・・・)()─但し、「論理的」という言葉にまだ意味があるとしてのことなのだが─独立(・・)して(・・)いる(・・)のである。

しかし、実際には、そう見えないのは、我々の思考が、ユークリッド的世界に代表されるように、日常的な感官体験に癒着(ゆちゃく)同化(どうか)しているからなのである。その無意識的一体性の(おお)いの下に(ひそ)んでいるのは、日常的感覚からかけ(はな)れて、想像を絶した、二元論(にげんろん)的な本源的分裂の深淵なのである。その哲学的洞察(どうさつ)が、奇想天外(きそうてんがい)な比喩的表現をもって表現されているのである。