今日、着ているポロシャツは、京子から近くのデパートに呼び出されて買ってもらったものだ。少し値段が高かったので、私の好みの色と柄の雰囲気を、確認させられたのを覚えている。妻はいつも自分の物は後回しにしていた。そんな思い出は山ほどあった。

京子が健康であったとき、日々気をくばって作ってくれた食事のこと。私が趣味で釣りに出かけるとき、朝の三時に朝食と昼食用の弁当を作ってくれたことも、はっきりと覚えていた。父母の介護、庭の草むしり、仏事、毎日の風呂の掃除など、私の気付いてないことも含めて限りなくあった。

情けないことに、若い時はそれが当たり前のことだと受け取っていた。六秒の心の高ぶりから、感情の切り替えの時間として探しだす項目にちょうどいい。京子に感謝ができて一石二鳥だ。

「ヨカッタ。アナタニ、時々、ハラハラ、サセラレタモノ」

京子は諦めていたはずの薄暗い穴から、顔を覗かすようにして、頬を少し膨らませた。透明な五十音字表から、そっと上目づかいに、私の顔をなおも見定めていた。警戒態勢を崩していないミーアキャットを連想させた。やがてその表情が、水の中にスポイトで色をさしたように、幾重にも明るく波紋を描きながら顔中に広まっていった。

「もちろん、まだ完璧に完成してない。最初は目だけが、怒っていることだってあるかもしれない。でも、怒ってない」

京子の感情が急激に変化したことで、年甲斐もなく、私の方がドキドキしてきた。

「ソウナノ? アナタニ、シテアゲタ事ッテ、少ナインダッケ? 直グニ、思イ出セナイッテ、チョピリ、淋シイナア」

京子は安心しきった表情で、急にいたずらを仕掛けるように、最後に「ワッ」と大きな口パクを付け足した。私に騙された仕返しだった。

「思イ出セナクテ、機嫌ガ悪ク、ナルトカ? ソレッテ、ナイヨネ」

ここぞとばかりに追い打ちをかけて、からかってきた。

「慣れてくれば、自然にできるさ。何にしても、いいことなんだから」

「今日カラ、安心シテ、イイ?」

自分の急なウキウキ感が不発にならないために、安心を確実にするための疑問符を、私に投げてきた。

「うん。いいよ」

私は少し自信がなかったが胸をはった。

「何時、考エタノ?」

「少し前から。今も、頭の中で整理してた」

「ソウナンダ」

久しぶりに私自身の心が解放されたような、晴れやかな気分になった。

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※本記事は、2021年7月刊行の書籍『ALS―天国への寄り道―』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。