第三章 沖縄での生活

1 何もかも失った沖縄 

とにかく生きる

ようやくの思いで戻ってきた沖縄は、想像を超えた状況の中にありました。

破壊され尽くした日本を占領下に置いた米軍は、人びとの暮らしよりも基地建設に専心していました。

祖母と両親と兄兄弟六人での生活が始まったものの、当面を暮らすための衣食住すべてに事欠く始末でした。とりあえず米軍からテントを支給されましたが、窓もなく、昼間はゆうに三〇度を超える暑さです。テントの中になどいられません。夜は薄暗い灯油を灯(とも)す中での生活です。

服は、米軍人が野戦服として着用していた、俗に“黒ン坊服”と呼んでいたものをもらい、母が裁断して学童用の服に仕立ててくれたものを着用して登校していました。

日々の食材にも事欠き、米軍からの野戦用のK・Sと称していた食料の配給を便りに数カ月を過ごし、戦争で荒れ果てた畑を耕しながら、食材確保に大人たちは汗を流す毎日でした。

米軍兵舎の建物を利用した学校

賀数部落の前にあった国民学校の校舎は、戦争で見る影もなく消失してしまっていました。そのため、米軍兵舎だった建物を利用して授業を受けることになりました。そこに行くには、砂利道を数キロメートルも歩かなければなりませんでした。多くの子供たちが、その砂利道を裸足でぞろぞろと歩いたものです。

教材はガリ版刷りのお粗末なもので、日本本土との教育上の交流は途絶えていました。米軍の管理下に置かれていましたので、米国政府管轄下の教育で琉球の歴史を学び、また音楽の時間にはアメリカ合衆国の国歌や、その意味も全く知る由もないままヨーロッパの童謡を合唱したものです。

運動場もなく、放課後帰宅してからは、数一〇メートルも離れた共同井戸から水を汲み、ドラム缶を満杯にするまで何往復もしました。米軍のジープの後ろのほうに、いわゆるガソリン缶が付いているのですが、それを失敬してきて水缶に利用しました。それを四個ぐらい、水をいっぱい入れて担いで運んだものです。こうして生活用水を確保するのが子供たちの日課でしたが、ドラム缶風呂も今では懐かしい思い出の一つです。

校舎を建て替えよう

一年近い仮校舎での授業の後、戦争で瓦礫と化した兼城国民学校の跡地に校舎を建て替えることになりました。ところが、木材を調達するにも南部地域の木々は戦火で焼かれ枯れ朽ちて使えないため、致し方なく、比較的戦禍を免れた北部山原の森まで大人たちは出かけ、木材を運んだものでした。

そのような苦労の末に校舎の骨組みができて、今度は屋根や壁を茸き上げるための茅刈りに高学年の生徒も駆り出されました。原野には一斉に青々と伸びたススキがありましたから、喜び勇んで鎌で刈り始めました。

すると、あちらこちらで悲鳴が上がります。なんと、葉陰に戦争で犠牲になった人の頭蓋骨や遺骨が散乱していたのです。終戦後の一~二年間は、このように山野のここかしこで老若男女の遺骨が発見されました。

身元不明の多くの方々が“魂魄の塔”に集骨されています。沖縄県民や軍族、アメリカ合衆国をはじめ、沖縄戦に参戦した敵味方の人々二〇数万人が犠牲になっていることは、我が国民や外国の人々に、いかほど知られていることでしょうか。

国の為政者のみにすべてを任せることなく、将来を担う子供たちの幸せのために、今こそ、戦争を体験してきた世代をはじめ、すべての国民が平和の尊さを全世界に発信し実践するときと考えています。

さて、多くの方々の労苦の末に、茅葺き校舎は出来上がりましたが、電気も何もない状態ですから、昼間でも教室内は薄暗く、風雨の激しい日は窓から容赦なく打ち込み、床はぬかるみます。その都度、授業を中断して机の移動を余儀なくされたものでした。
本物の黒板もありませんから、ベニヤ板に黒いペンキを塗ったにわかづくりのもので、そのような環境で学んだものです。

台風銀座の沖縄では、暴風雨のたびに安普請(やすぶしん)の校舎は倒壊し、その都度、茅苅りの手伝いをさせられましたが、他府県の生徒には到底想像だにできない貴重な体験が続いたものです。

[写真1]茅葺きの校舎の前で。多くの生徒が裸足で通学していた
※本記事は、2020年3月刊行の書籍『 ひたすら病める人びとのために 下巻』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。