第2章 天然だったけど頑張る母

小さい頃から、祖父母や両親がいろんな種類の病気にかかり入院中の看病の手伝いをしていた。おかげ? でどこに行っても医療関係者と何回も間違われるくらいの看護はこなせた。今回も例のごとく間違われた。門前の小僧習わぬ経を読むである。もちろん看護や介護関係の免許はない。

一方父は、看護ができず、腰が悪く重いものは持てない。薬を調べたりもできない。病状をうまく把握できない。家事ができない。自分の奥さんなのに介護できない。そもそも病院に顔をださない。一人娘なので、介護は一人で頑張るしかない。全ての病気は私が説明を受けるもの。全てを決定し、私が責任を背負うもの。それがわが家の家訓? だった。今回の入院でも、すべての決定や情報を伝えるのは父でなく、私に任せて欲しいと、母が主治医に頼んでいた。いつものパターンである。

覚えている最初の介護は小学校低学年。毎週末、父が運転する車で高速を使って車で1時間半の父方の祖母の看病に通っていた。私は軽い日光アレルギーにもかかわらず、車には、カーテンをかけて、毎週末通っていた。私は父方の祖父母と歳が離れすぎていて祖母が立ったのを見た記憶がない。病院か家のどちらかで寝ているだけであった。36㎏だった祖母は、痩せこけていた。

私が会う時は、もみほぐしや関節伸ばしを習って小さいなりに頑張っていた。尿を量ったり、背中をさすったり、小さいながら、看護師さんがリハビリに来られた折に、ずっと横になっているので、2人になると話相手にもなって、おむつを替えたりした。

小学校の料理クラブに入って味噌汁を作った。という話をした時、「味噌汁を食べたい。大鍋いっぱいに、作ってほしい」と言われた。こんなにいっぱい誰が食べるの? と思いつつ本当に大きな鍋だった。大きくなって、祖父用の一週間分の味噌汁だったと聞いた。まずくても、かわいい孫の料理は美味しいもののようで、出汁を変えた方がいいか聞いても美味しかったよ。としか言われなかった。

父は祖父の仕事(政治家)の手伝いをし、母は、祖母の体を拭いたりと看病をしていた。時々開催されるパーティーは祖父のエスコートで私が参加したり赤い羽根基金では、(当時まだシールではなく針の頃)体中赤い羽根を刺し、子供にとってはちょっと大きい貯金箱を持って、重いのを必死に我慢し、募金活動をした。募金してくださった方に「好きなのを取ってください」と、声をかけた。小さい子が可愛いからその子に募金してあげようと思ってくださるのはうれしいが、小さな私には、すぐ募金箱が重くなって交換してもらっていた。苦行だった。

※本記事は、2022年2月刊行の書籍『ドーナツの穴』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。