幼いハンス

「やっぱり列車で行かない?」

僕は仕事から帰るなり、リビングにいる両親にそう言ってソファーに座りながら、かばんを足元に置いた。我が家ではここ数日、今週末から母の実家へ帰るための交通手段について、三人と一匹で家族会議だ。コロコロとして小さい豆柴犬のマメは、退屈そうにあくびをして、前足を枕にして眠っている。

誰も観ていないテレビが気になり、テーブルのリモコンを父に「取って」とは言わずに指を差した。僕は受け取ったリモコンでテレビを消して、そのまま父に返した。新聞を折り畳んで、メガネを外した父が、

「列車で行きたいのは将太、お前だけだろう。それにタイムロスもなぁ……。なぁ、母さん」

父は僕から受け取ったリモコンを、今度は横に座っている母に渡しながら言うと、父の一言で、「そうよぉ〜」と、リモコンをバトンリレーみたいに受け取りながら母も頷いた。単身赴任で殆ど家にいないのに、父のこんな時の鶴の一声は強い。列車で移動する僕の案は(ことごと)くうまくかわされ、母は食後のコーヒーを飲みながら、パソコンで航空サイトの空席状況を調べている。僕は目を閉じて、どうか飛行機が満席であって欲しいと願いながら、昔行った懐かしい旅の記憶を思い出していた。もう一度、あの時の旅を体感したい……。

子供の頃、列車に揺られながら一人で行った、忘れられない思い出。数日間の祖母の家での出来事や、あの草花の香り、空の色が、苦しくなった時の今の僕を、いつも元に戻してくれる。何かがあった時、今の立場から逃げ出したい気持ちや、胸がつかえるような人間関係、時々周りが見えなくなり何もかも放り出したい日は、心のシートベルトを外して飛んで行きたくなる。頭で覚えているのか、胸の中のアルバムが色褪せないのか、不思議と消えない記憶……。誰かに、心の奥のとても柔らかい場所を触れられた、そんな旅だった。

「あのさ……」

と言って右ポケットに手を入れた時、僕より数秒だけ早く母が、「航空チケット、予約オッケーよ」と満面の笑みで親指と人差し指を丸くしてOKサインをして見せた。僕はポケットから出しかけた家族皆んなの列車のチケットを、またゆっくりと戻しながら母に微笑んだ。足元のマメが、横目で僕をチラッと見て、またあくびをした。

その週末、急な仕事の都合で後から行くよと嘘をついて、先に向かっている両親とは別のルートを選んだ。僕は、色んな事を考えるきっかけとなった旅を、どうしても同じ地点からスタートさせたかった。あちこちに置き忘れてきた思い出のパズルのピースを、僕自身で拾い集めたかった。

頭をフル回転させる目まぐるしい毎日の中、それでも大きな問題があるわけでもなく、だからこそ、今の自分は何か見失ってはいないか、ほんの少しこれから向かう先の、自分の軌道修正をしてみたい。あの時、自分が思い描いた大人に今、なっているだろうか……。これは、僕自身の答え合わせの旅でもあった。

カラフルな椅子に座って眺めるホームの景色が、少しずつあの時の記憶を呼び戻してくれる。周りを見渡すと、行き交う人達の色んな物語が垣間見える。荷物を両手一杯に持っているおばさんに、大きなギターケースを担いでいる女の子。携帯で話しながら何度もお辞儀をしているサラリーマンや、飛ぶ勢いで走って来る青年。あの時の僕も、周りからこっけいに見えていたんだろうな、きっと。

そんなに喉が渇いているわけでもないのに、さっきから何度も水を飲んでしまう。腕時計の秒針に合わせて、僕の鼓動も激しく時間を刻む。何だか、自分の心臓の音が周りの人に聞こえているんじゃないかと思うほどだ。緊張してるな、と手にしたペットボトルをクルクル回しながら、落ち着かない自分に苦笑した。

顔を上げると、向かいのホームに男の子が座っていて、ホームの時計を見ながら不安そうに左右をキョロキョロしている。

※幼いハンス=ドイツの民謡・童謡。日本の童謡【ちょうちょ】の原曲まだ幼い、ハンスという好奇心旺盛な男の子が、冒険の旅に出て七年後にすっかり姿を変えて帰ってくるというストーリーのドイツ民謡。

※本記事は、2021年10月刊行の書籍『ギフト』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。