国光卿は当然のように難色を示されたが、儂としては、何としても長慶様の政治的影響力が未だに将軍を越えていることを天下に知らしめたかった。そうでもしなければ、天下は再び乱れると思っていた。国光卿は結局、上奏の片棒を担いでくれたのであるが、

「征夷大将軍の臣下が改元に関して上奏するなど前代未聞のことである」

という正親町天皇の御言葉により、改元の件は却下された。これにより、将軍義輝公こそが武家の頂点であると朝廷は認識していると知れたが、改元は成らなかったものの、長慶様が今現在も積極的に政事に関わっているという姿勢を世間に示すことができたと儂は思う。

新緑は目に優しく風に(なび)き、小鳥たちはそこここで楽しげに(さえず)り、花々は色とりどりに大地を彩る。こんなにも長閑(のどか)で心地良い季節であるのに、今度は側室の保子が逝った。急な病であった。まだ三十路にも届かぬというのに黄泉路へ旅立って逝った。

保子が広橋家より松永へ嫁ぐ以前は、儂には久通しか子がおらず、当時から名医として名高い曲直瀬道三から性の指南書『黄素妙論』を贈ってもらうなど、千春とともに子作りに励んでいたのであるが、なかなか子が授からなかった。周囲の者の余計な心配もあったが、儂自身も松永家の繁栄を考えると、やはり子は多い方が良いと思い、親子ほども(とし)の離れた保子を貰うことにした。幸い、保子との間に娘二人を授かったが、未だ十歳にも満たない幼子である。優しい母親をにわかに(うしな)い、何とも不憫でならない。

保子は、儂の政事(まつりごと)にも色々と手と知恵を貸してくれた。何と言うても、公家の広橋家の女である。儂に()す以前は後奈良天皇の後宮女房として宮中に出仕していたので、公家の間では知らぬ者はなかったし、保子の兄の広橋国光卿は武家伝奏であったから、公武の橋渡しにも一役も二役も買ってくれた。

また、保子の他の兄弟は奈良興福寺諸院の幾つかの別当などを務めているお陰で、儂の大和国支配の助力となっていた。それでも保子は公家の出自であることを鼻に掛けるようなことはなく、陽気なうえに快活で、いつもころころと笑っていて、娘たちには好かれ、周囲の者にも慕われていたし、何より儂好みの容姿を備えた好い女人であった。多聞山城の四階(やぐら)の望楼に独り登り、儂は泣きながら、そして時折笑みを浮かべながら、保子との(わず)か八年の良い想い出に浸っていた。

保子は、大徳寺の大林宗套禅師から〈仙渓〉の号を授与され、大林宗套禅師のお弟子の笑嶺宗訴禅師をお招きし、仙渓の葬儀をしめやかに執り行った。この時儂は、奈良中の芸能と作事の停止を命じ、民草もこれに応じて喪に服してくれた。葬儀の後、南宗寺の裏に勝善院を建立して、儂は仙渓の菩提を弔った。義興様を喪ってから、まだ一年も経たぬうちに、また一人、愛する人を喪った。