【前回の記事を読む】時を越えた名品『瀬戸黒の抹茶茶碗』に心打たれ、涙を流した

第三章 器

焼き物の中の小宇宙

東京で暮らしていた頃、備前焼きの陶工で人間国宝の金重陶陽の作品展を見に行ったことがあった。

日本橋の高島屋には、茶道具を中心としたかなりの数の作品が展示してあったが、一つ一つ見ていったらぐったりと疲れてしまったことがあった。へとへとになりながら、同じ階にある喫茶室でアイスコーヒーを飲んで一息ついた時、作品を観る前の自分とは違う上品な私になれたような気がした。

そんな想いは数日で消えてしまったが、もし一点でも手元に置くことが可能なら、私はもう少しまともな人間になれるだろうと思った。たぶん見ると買うとではまるで次元の違う話で、小林秀雄や白洲正子や青山二郎といった人たちの売った買ったの世界は、焼き物という小宇宙の中に宿る精神を獲得する凄まじい生き様だったのかもしれない。

『美のなごり・立原正秋の骨董』は、眺めているだけで独特の世界に浸ることができる。

見事な李朝白磁大壺、李朝三島印花平皿、高麗青磁陰刻鉢など。知り合いにプロの泥棒がいたら料金を安くしてほしいと拝み倒し、手に入れたいくらいである。

そして、最近思うことがある。焼き物ほど壮絶な痛みを通して誕生した芸術作品はないのかもしれないと。何しろ長い時間火に焼かれて誕生するのだから。土と炎から生まれる作品たち、陶工ができるのは窯に入れるまでで、後は火まかせ、土まかせの他力の世界、神秘の世界である。

例えば、雫浄光の油滴天目などは、その最たるものかもしれないと思う。この方は陶工でありながら仏門に入られた方で、作家森敦との出会いのエピソードは感動的である。

「君に出口をあげよう」「つくることは祈ること、祈ることはつくること。信行一致だよ」あまりにも深くて、私など近づけない言葉ではあるが、作るという仕事に向き合われた人間の崇高さが感じられ、感動を与えてくれる作品に出会うと、私はいつもこの言葉を思い浮かべる。

森敦の小説『浄土』を拝読すると、さりげない日常の中に、とても大切なもの。忘れていたけど、豊かな情感に浸れる余韻が漂っていて、好きな作品である。

あの頃街には、サザンオールスターズの『いとしのエリー』が流れていた。京都には、クラッシック喫茶があって、法衣姿のお坊さんが熱心に耳を傾けていたりした。