今思えば、私がこの時期に再就職しなかったのは、結局は自分と周囲への甘えだった。できない事情ばかりを考えて、何がなんでも仕事に就くという強い意思を持っていなかった。中途半端な日々を打開しようとがむしゃらにならなかった自分が悪かった。

結婚式と披露宴はいっときの夢だけれど、その後長く続く結婚生活は夢物語じゃない。毎日毎日の現実をどう過ごすかだ。身も蓋もない言い方をするなら、お金と時間を相手のためにどれだけ使えるか。お金も時間も限られている。

私たちの場合、二人ともお金への執着はそれほどでなかったが、時間を自分のためだけに自由に使えないことが葛藤の種だった。娘は生後九カ月で歩き始め、一歳のお誕生日には片足ケンケンするほどに成長し、やがて平熱も正常値に落ち着いた。

その頃、同じマンションの先輩ママさんから「保育ママ」制度を教えてもらった。自治体から「保育ママ」の認定を受けた方が自宅で少数の幼児を預かる、子育て支援のための家庭的保育事業である。早速、博史と一緒に面会に行き、娘の保育をお願いした。

義父母には、内緒だった。義父母は町田市に住んでいて会いに行くのは週末なので、黙っていれば済んだ。その保育ママさんは明るく元気な方で、新米ママの私をいつも励ましてくださった。やっと念願かなって働きに出られた。

だが、現実は厳しかった。

朝食の支度のために早起きする、食べたら大急ぎで片づけて、娘を連れて保育ママさん宅へ。午前十時から午後四時まで働いて、同僚とのおしゃべりもそこそこに娘を迎えに行く。買物をして、帰宅。洗濯機をまわして、ポストに入っていた何やかやの連絡の段取りをして夕食を作り、娘と食べる。それから娘をお風呂に入れて、寝かしつける。夫は、私が出かけた後に起きて正午頃に出勤し、午前二時過ぎの帰宅。私は夫の帰宅する音で起きて、それから二人で一日のことなどを話した。

博史と話すのは、楽しかった。いろいろ聞いてもらって助かったのは事実。だが、お互いに相手を思うゆえに、あるいは相手に嫌われたくなくて、言いにくいことは口にしない場合もあった。

職場はタウン誌を発行している会社だったので、町の人への取材を楽しみにしていたが、いつ子どもの体調が悪くなって呼び出されるかわからないから、大事な取材のアポは取らせてもらえない。勤務時間の大半をほかの人が書いた原稿チェックをして過ごし、その他は掃除と電話番と雑用の日々。

睡眠時間は四時間取れればいいほうだった。ストレスが、少しずつ溜まっていく。ついに爆発した。博史が体を求めてきたとき、自分でも思いがけず突き放してしまったのだ。

「ごめん。疲れてるのよ」

「わかった。じゃ、僕が子どもを見るから、君は一人でゆっくり寝てもいいよ」

「そうじゃない」

「なんだよ」

「……」

「どうしてほしいんだよ」

自分でもわからなかった。涙が出てきた。一度留め金のはずれた涙腺は、次から次に涙を流させた。自分でもどうしようもなかった。

「なんだよ、どうしたんだよ」

言葉にならなかった。言う言葉が見つからなかった。

※本記事は、2021年9月刊行の書籍『あなたと虹を作るために』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。