恭子との関係と比較すると、百合との関係では彼女個人のことで既に与り知らないことが多すぎた。

交際が始まり終わるに至るまで、恭子の人となりについては誤解も多分にあったとはいうものの、理解し了解するところもあった。それに反し、個人的なつき合いなどなかったと思っていた百合の場合には、彼女の性格や性癖なども全く与り知らないのが当然といえば当然だ。

自身にやましさなど覚える必要はないと突っぱねることもできたはずだ。しかし「癒しの力」ということでは百合に対しても自身の自覚しないところで影響するところがあったのか、それとも逆に彼女によって影響されるところがあったのかと考えあぐねることもでてきた。

自分の能力を手前味噌に都合の良いように解釈し直したのではないかと思える面もある。没交渉のままに終わったはずと思っていた互いの気持ちが、ひょっとすると深いところで通じ合っていたのではないのかと思わせる体験をしたことがあるのではとまで思案してしまう。

百合は叔父の主宰する音楽サロンでも、集って来た人たちの会話に加わるようなことはめったになかった。その日の演奏についても批評などほとんどしないのが常だった。しかし一度だけだが彼女が意外な一徹さを垣間見せたのを来栖は思い出した。シューベルトのピアノソナタ一九番、および二〇番が中心となる例会だった。

来栖自身、その頃は仰々しく重たいシンフォニーを聞くことには辟易しており、主に室内楽を好んで聞いていた。年齢の点からいっても好みには移り変わりがあるようで、彼は室内楽を中心に、特にバイオリンとピアノの楽曲を提供してくれる小規模の音楽サロンにだけは、まめに出席するようになっていた。

ピアノ曲に関しては完成度の高いコンチェルトなどよりも、はるかに素朴で単純なソナタのほうが愛好の対象だった。この日の演奏家の技量や音楽性の秀抜さ、そして豊穣の多寡は別にしても、例会でのコンサートは十分に楽しめた。個人的にはシューベルトのソナタの中では特に二〇番が好みだったので、その日は傾聴したといっても大げさではなかった。

ブレンデルやツィメルマンのようなシューベルト弾きの手練れであっても極めて単純素朴にしか弾けないと思える二音、三音の連なりで、ほとんど重和音も単音のようにしか響かない箇所がある。

そのフレーズでは全音符も加わってメロディーもきわめてゆっくりと流れていく。名匠でなくとも朴訥な味わいが出せる箇所ともいえるし、またその反面、極めて退屈極まる音節の連なりを聞き手に提-供せざるを得ない箇所ともいえる。

来栖は好みのピアノソナタについてだけは繰り返し聴くようにしていたので、独特の味わいはどのような演奏ならうまく引き出せるのだろうと、この日も演奏後に考えていた。

※本記事は、2021年4月刊行の書籍『ミレニアムの黄昏』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。