弓恵はともかく子どもたちに対して、諭は「いい父親」の顔を見せたかったのだろう。完成したばかりの家を明け渡し、自分が住まない家の住宅ローンを払い続ける上に高額な養育費を払うと聞いて、「そんな無理は続かない」と布由子と夫の隆平は反対した。

弁護士を通じて離婚協議をするべきだと諭に助言したのに、結局当人たちの話し合いのみによる「約束」を交わしたのだと知った。離婚後十年近くその約束は守られてきた。弓恵も勤めに出て幾分かの収入は得ていたが、子ども二人が私立高校に通い、その携帯電話代も諭が払い、土地建物の固定資産税を払うための積み立てまでしていたそうだ。

役員報酬をいくら貰っていたのかは知らないが、諭本人はカツカツの生活をしていた。

白血病の診断を受けて最先端の治療を受けられたのは、高額医療費の制度もあり、生命保険に付けてあった「がん特約」の医療給付金にも助けられたのだが、沙織の物心両面の献身的な支えがなければ立ち行かなかっただろう。

当時はまだ諭の病状が重篤であると知らされていない故もあるのだが、養育費の減額等の交渉に聞く耳を持たない母子に対して、諭と沙織は苦り切っている。

「約束を破ろうとするお父さんが悪い」と洸太は言う。市役所で福祉の仕事にも関わった経験がある布由子は、金額の多少に関わらず約束した養育費が支払われなくなるケースが山ほどある事を知っている。それは論外であるし子ども相手に正当化できることではないのだが、一体この世の中でどれほどの約束事が守られているのか。

諭はその無謀な「約束」を愚直に守り続けてきたというのに。命の火を吹き消されぬよう闘っている最中にも。

※本記事は、2021年10月刊行の書籍『スノードロップの花束』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。