二〇二〇年の三月から五月にかけてのこの時期にはこれからこのコロナウイルスCOVID-19のパンデミックによって世界にどれくらい感染者と死者が出るか、どれくらい経済的、人的な損害が起こるのかまだ誰も予測していなかった。

日本での災いの予兆はクルーズ船から始まった。

豪華客船ダイヤモンドプリンセス号はこの年の一月に横浜港を出港し、鹿児島、香港、ベトナム、台湾、沖縄を周遊し、二月の初めに横浜に帰港。だがその一週間前に香港で下船した乗客がコロナウイルス陽性であることが確認されたため、全乗員乗客に対する検査が始まった。

それ以降、陽性患者が次々に下船し、病院に入院、隔離。陰性の乗客らも船内に留め置かれるなど、集団感染の深刻さが人々を不安に駆り立てることになった。

世界に目を転じると東アジアの各国は中国・武漢のコロナウイルス発生に対して比較的早めに対策を講じたが、欧米の対策は遅れた。初めに「どうせアジアの風邪だ」と軽く考えたことで対策が後手に回った。

ことにイタリア北部のあまり馴染みのない小さな町から発して、北イタリアに広がった感染のスピードと死者数はヨーロッパ全土を震撼させるには十分だった。名教皇と言われた聖ヨハネ二十三世の生誕の地、古都ベルガモ。親族が別れを告げることも許されないままに、棺が軍用車に積み込まれて遠くの火葬場に運ばれていく。その傍らで司祭だけが祈りを捧げる映像は、イタリア全土を恐怖と悲しみで(おお)った。

感染者と死者は旅行者を通じてヨーロッパに急速に増え、やがてアメリカやブラジルでもウイルスを軽く見る指導者の下で一気に拡大していく。この初期の対応の速度が後の各国の感染度合いを決定付けることとなった。

※本記事は、2022年1月刊行の書籍『私の名前を水に書いて』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。