まず『日本書紀』からその該当部分、大物主が、崇神の夢枕に立った場面である。

()()(みゆめ)に、(ひとり)貴人(むち)()り。殿(みあからの)(ほとり)(むか)()ちて、(みづか)大物(おほもの)(ぬしの)(かみ)(なの)りて(のたま)はく、「天皇(すめらみのみこと)(また)(うれ)へましそ。(くに)(をさま)らざるは、(これ)()(こころ)ぞ。()し吾が()大田(おほた) 田()根子(ねこ)()て、(われ)()()りたまはば、(たちどころ)(たひら)ぎなむ。(中略)」

ここでは饒速日(大物主)の児が、大田 田根子であると述べられている。饒速日はというと、出雲系ユダヤの大和における政治分野の責任者であった。彼はまた、邪馬台国の卑弥呼をお世話したことが、魏志倭人伝の記載から分かる。父方の血筋である饒速日がユダヤ系であるから、大田 田根子は立派なユダヤ系である。

大物主にとっての「吾が児大田 田根子」という表現は、『古事記』では異なっている。天皇の夢に大物主が顕れるのは同じであるが、()()() 多泥(たね)()(大田 田根子)は大物主の子孫ではあっても、「吾が児」にはなっていない。

ここをもちて(たゆま)使(づかい)四方(よも)(あか)ちて、意富多 多泥古と謂ふ人を求めたまひし時、河内(かうち)()(のの)村にその人を見得(みえ)(たて)(まつ)りき。ここに天皇、「()()が子ぞ。」と問ひたまへば、答へて(まを)ししく、「()は大物主大神、陶津(すえつ)(みみ)の命の女、活玉依毘賣(かつたまよりびめ)を娶して生める子、名は(くし)御方(みかた)の命の子、(いひ)(かた)()()の命の子、(たけ)(みか)(づち)の命の子、(あれ)意富多 多泥古ぞ。」と白しき。

このあと意富多 多泥古が、大物主を御諸山(三輪山)にお祭りして、疫病は無事に平癒したのである。しかしここでは意富多 多泥古は、大物主から4代あとの裔孫である。彼が崇神や饒速日(大物主)と同世代人とするには、少し無理がある。

筆者は歴史の素人であるから、そんな矛盾に躊躇しない。系図上で無理のない親子関係として考えるなら、『日本書紀』の系図を用いれば事足りるので、それを採用して論を進めていくことにする。

※本記事は、2022年1月刊行の書籍『ユダヤ系多氏が語る装飾古墳』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。