第3章 マネジメントから見た司教団の誤り

3.司教団の誤り

「戦争はいやだ」「平和が大切だ」

そんなことは司教に言ってもらわなくても分かりきっている。戦争を回避するために、平和を維持するために、どうすれば良いか、それが「政策」である。

真理はおそらくない。あればこの世から戦争はなくなっている。いずれにせよ、無防備で存続し得た国・民族を、歴史は持っていない。

日本が歴史上初の例外になるというのは、根拠のない「実験」である。日本人を人身御供に曝すことである。ましてその実験に賛同しない者を好戦者と言うのは、戦前、異なる意見を「非国民」と決めつけたのと同じ精神構造である。客観的多角的な思考ができないのだ。

日本を「神国」と言い、「神風」が守ると言った。同じ思考経路が今「九条があれば平和だ」と言う。繰り返すが、「昔大本営、今司教団」である。

カトリック教会にはさまざまな考えの人がいる。いて当然である。それは「信徒の問題」であって、「社会教説綱要」424にあるように、「宗教や倫理とのかかわりがないかぎり、教会は政治計画の利点に関する議論にかかわるべきでは」ないのだ(この場合の「教会」は、教会を代表して、とか、教会の名において、の意味と考える。司教団声明のようなものがそれに当たる)。

司教様方がそれを知らぬはずはないだろう。「批判されぬ絶対優位の立場」を使った一方的な意見の表明は、それと異なる考えを持つ信徒を圧迫する。布教でなく排除である。残るのは司教方の政治的意見に同じ考えの人、司教様のお言葉だからと何が何でも従う人、司教発言を無視する人、の3種類である。

司教の言葉を真剣に受けとめ、自分の考えとの差異に悩み、挙句に多くの人が教会から遠ざかった。所在不明者の増加がそれを示している。教会に一番必要な人たちだったのではなかろうか。

カトリック新聞に対しても同様である。購読者数は一貫して減っているはずだ(数字を知るよしもないが、私の知る範囲で、購読をやめた人はいるが新規購読を始めた人はいない)。カトリック学校についても、影響のあることを聞いている。司教団の政治的発言を知り、そのような人々の影響下にある学校へ子女を入れたくない、と考える親が多く出ても、自然なことである。

「1984基本方針」に戻る。この文書には数値と時間の設定がない。したがって、進行過程で検証し評価する、あるいは反省する尺度がない。“Responsibility”がないのである。つまりこれは「計画書」ではないし、司教様方も計画書とは思いもしていないだろう。

それはそれとして、司教団はここで、「全世界に行き、全ての者に福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16・15)これこそ、主イエスが教会すなわち、神の民全員に与えた使命である。と明確に記している。その「使命」を、1984年を起点にしてもすでに35年、司教団は果たそうとしているだろうか。司教団は現実にはどのような活動をしてきたのか。

目に見える「実」として、前章で、司教団の発言を分析した。全292本のうち、タイトルに「宣教」「布教」「福音」のあるものは6本にすぎなかった。しかも、「1994年12月20日福音宣教者の養成のために」以降、皆無である。「実」を見る限り、司教団の頭に、「宣教」はなさそうである。

※本記事は、2019年4月刊行の書籍『マネジメントから見た司教団の誤り』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。