何故モロッコへ行く事になったのか

母(田中優江)は1942年、世田谷区上野毛の大地主の5女として誕生し、2000坪の自宅で何不自由なく育ちました。その後結婚し1972年、私(田中由紀子)が誕生します。

離婚後は父親の遺産で暮らしていましたが、私が小学校2年生の時、私達親子の転機となる事件が起こりました。それが、週刊誌に掲載される事となった史上最高1億円結婚詐欺です。

当時母の交際相手の男性こそが、この事件の詐欺師でした。母は私の将来の為に貯めていたお金まで全て失くし、精神的に病んで入院。私は突然アメリカンスクールから日本の公立の小学校に転校しました。母はしばらくして無事退院したのですが、一文無しになり私を抱えている以上、「仕事をしないといけない」と決意したそうです。

手に職をつけようと、母はエステティシャンの資格を取る事にしました。その為の資金さえなかった母の為に、音楽評論家の湯川れい子さん(私がアメリカンスクールの幼稚園に編入した日が息子さんと一緒で、その時から今でも家族ぐるみの付き合いです)ご夫婦が、家財や車を売ってお金を作って下さり、無事資格を取得することができました。

その後色々な方の紹介もあり、有名な安陪常正先生の治療所に入って、美容と指圧を取り入れた当時の日本ではあまり知られていなかったリフレクソロジーを先生と研究し、資格をいただいて、7年間働きました。

先生や患者さんからも、母と私は可愛がっていただきました。安陪先生の治療所には、政界の方、芸能人や大手企業の社長クラスの方々が大勢いらしていたので、毎年お年玉は10万円以上もらっていました。その当時は今は亡くなっている港区高輪の叔母の家の近くに住んでいました。その後南麻布に引越しし、進学した中学校は六本木にあり、母の仕事場が麻布十番だったので、学校帰りは母の仕事場に寄って帰るような生活を送っていました。

そんなある日、当時モロッコ大使に任命された平岡千之(三島由紀夫の弟)さんが、患者として指圧を受けていた際にこんな事を話されました。

「モロッコの王様が日本人の女性のマッサージ師を探してるけど誰かいない!? 契約は2年だけどね」

すると母が、

「私がいるじゃない!」

平岡氏は、

「そうだマーちゃんがいた!」

母は患者さんや友人から、マーちゃんというあだ名で呼ばれていました。そして母は、

「1年なら行けるし、ハーレムを見てみたい」

と言い出したのです。

そんなやり取りを聞いていた私は、

「行けば?」

と後押ししました。でも、正直こう言った後、「私はどうなるの?」と不安になり、言わなければ良かったと、かなり長く後悔しました。

そんな冗談に思えた突飛な話が、あっという間にどんどん現実になっていきました。しかし相手は一国の王様です。得体の知れない人など受け入れる訳もなく、すぐに身辺調査が行われました。そうなると家族の事も細かく調べられます。そしてまた紹介者も重要となる為、同じく当時の常連の患者様だった元総理・故羽田孜氏(母の友人が先生の洋服を作っていた関係でマッサージに来て下さってからの長年の友人兼お客様で親子共々大変お世話になった方です)が王様へ推薦文を書いて下さいました。

お力添えいただいた方々のおかげで、最初のお話をいただいてからほんの数ヶ月で冗談のようなこの話は現実となりました。

そこで、私はどうすれば良いかという事になりました。当時私は中学3年生になったばかりで、高校受験のまっただ中です。そんな時、母はいくつかの選択肢を出しました。

1、スカウトされていたモデル事務所でお世話になりながら、仕事と学業を両立する

2、単独留学する

いずれにしても、15歳の私にはすぐには決められませんでしたが、悩んだ末、私は単独留学する事を選びました。