その① 徳川幕府と藩の関係は絶対関係であり、藩領は徳川幕府より管理監督を任されているのであって、藩主の領地ではない。従って転封や取り潰しを当然とした幕府の方針である。徳川幕府の体制に異論のある時は存分に申し出よ。

その時は徳川全軍をもって対峙しようと、三代将軍徳川家光が、江戸城中で諸侯に宣言した時より統一政権による幕藩体制が完成した。大変重要な一文であるからしっかりと知りおくべき案件である。秀吉の時代は完全なる封建体制ではなかったとも付け加えておく。それは転封や取り潰しの制度はなかった。

その② 各藩、隣接諸侯での私的闘争は許さない。全て幕府の承認のうえですること。

つまるところ、仇討あだうちであっても幕府の許可なくすればそれは私闘と見なされ喧嘩両成敗になる。そこを少し詳しくしよう、大河ドラマを愉しくみられる。元禄赤穂事件(忠臣蔵)に象徴されるように、仇討は日本人の機微に触れるものである。

しかし天下泰平となった江戸時代は幕府による厳格なルールがあった。仇討が藩領の者なら、まず藩に届け出る。理由が幕府によって検証され、仇討が認められると、帳付けといって記録される。この段階から討ち手は仇を追って、各地に移動することを公認される。

かたき討ちの場所も神社仏閣の広場で公認としてなされ、助太刀や見物人の許されるという細かい規則があったことは知っておいても読者の自慢話にできよう。本題に戻る。

その③ 米作耕法が進歩して農民の経済が安定し、大衆文化に華が咲いた。そのほかを言えば「禁中並武家諸法度きんちゅうならびにぶけしょはっと」を公布することによって、徳川幕藩体制を確認したことも大きいが、この案件については別に触れていきたい。

なお、最も徳川幕府と日本国文化が安定した時代は、五代将軍徳川綱吉(一六八〇~一七〇九)から八代将軍徳川吉宗(一七一六~一七四五)であったと言われる。またキリスト教禁止令により、長崎の島原藩原城で勃発したキリスト教徒の反乱「島原の乱」を最後に私的闘争の禁止が徹底されたことが、以後の天下泰平の大きな要因である。

このあたりはまた他の一面で複雑であり、詳細を知りたい読者は拙本の彷徨える日本史シリーズの第二弾『天草四郎時貞の実像』(幻冬舎)を紹介しておきたい。次に移ろう。

※本記事は、2022年2月刊行の書籍『彷徨える日本史』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。