【前回の記事を読む】著名な雪の科学者、中谷宇吉郎の弟は考古学者!? 知られざるその生涯を娘が語る!

第一章 中谷治宇二郎の生涯

中学生時代

治宇二郎は一九〇八年(明治四一)四月片山津尋常小学校に入学、一九一二年(明治四五)一〇月錦城尋常小学校五年に編入した。翌年四月六日、父卯一が死去した。享年三五歳。一九一四年(大正三)三月錦城尋常小学校を卒業し、四月動橋高等小学校に入学、翌年三月、一年で修了した。

治宇二郎は一九〇二年一月の早生まれ、宇吉郎は二年前の七月生まれで学齢は一年しか違わない。母てるは、万一宇吉郎が小松中学校の受験に失敗したら、翌年治宇二郎の受験と重なり、二人が同学年になっては困ると心配し、治宇二郎の中学受験を一年遅らせたが、それは杞憂に終わった。

一九一五年(大正四)四月旧制石川県立小松中学校(現県立小松高等学校)に入学した。しばらく寄宿舎生活をした後、妹文子の養女先、小松町京町の中島家に寄宿した。優等生であった宇吉郎と違い、次男坊の気楽さで剣道、水泳、野球等のスポーツや、文芸に明け暮れる日々であった。

学業成績は始めこそ上の中位であったが、文芸に凝りだしてからは徐々に下がり、五年生の頃には通信簿に「異装」と書かれ、家族の笑い種になった。当時の文士を気取り、粋がっていたのだろう。生家の丸中屋には、卯一が作ったショーウィンドーがあり、飾り付けは治宇二郎の手になるもので、センスがいいと評判だった。

治宇二郎は中学生時代よく店番をさせられたが、店にある本を読んでばかりいて、客が「あんちゃん、晒さらし(肌着等に用いる木綿の白い布)をおくれ」と言っても、本から目を離さず、「無い」といって断ってしまう。そのうち客は店を覗いて治宇二郎が店番だと分かると、そのまま立ち去ってしまった。家業には何も役立たない店番であった。

創作「獨創者の喜び」を巡って治宇二郎は中学五年の時、学友と『跫あし音おと』という同人誌を創刊した。初号を出すに当たっては二年先輩の、後に演劇家になった北村喜八さんの助力が大きかった。治宇二郎の小説が、昔芥川龍之介に褒められた、とは幼い頃母から聞いたような気もしたが、父を知らない私にとってそれは大昔の伝説のようでもあり、長じて治宇二郎の資料を纏める時になっても何の知識もなかった。