女は席を立ちオフィスを出た。廊下にある自動販売機を通り過ぎ、階段を上がったところにある自動販売機で缶コーヒーを買った。デスクに置き去りにされたコーヒーはすでに冷めている。もう終わっていますように、と願いながら女は席に戻ったが、電話はまだ続いていた。

次の三連休にはどこにいこうかなど、延々と話している。女は、いたたまれずに携帯電話を手にして、いつものように「My Life」を開いた。ちょうど東京の男が投稿した直後だった。

「Wish You Were Here」って、私のことじゃないよね?

二週間前、突然知らない男から「My Life」でメッセージが届いた。悪い気はしなかったから、返事を送った。それからは、一日一往復のやりとりになった。三日前のメッセージには返信していない。

会ったこともない。それだけのことだ、「この世界」ではよくあることと女は思っている。もうつながりが終わったはずの人の「Wish You Were Here」に思わず反応して、胸がざわざわする。

女は急いで別のページに移動して、興味もない情報を眺めた。女の「My Life」のアカウントは比較的新しい。一番古い履歴は三年前のものだ。同じ会社の人から始まり、同じ業界の人、異なる業界の人とつながり、キャリアアップを狙う人々との情報交換の会に頻繁に参加した履歴が残っている。

仕事だけでなく、料理やテニスといった趣味のコミュニティにも所属していろいろな書き込みを行っている。ところが、一年前からは、コミュニティの所属はそのままに、活動の足跡はぱったりと途絶えている。何があったわけでもない。

というより、何もなかったのだ。飽きた、といってもいい。飽きたからといって誰に咎められることもない。フェードアウトすればいい。まさに残骸だらけだが、それだけのことだ、「この世界」ではよくあること、と女は思っている。

女はやはり気になって、もう一度、東京の男の「Wish You Were Here」の投稿を見た。カフェのような場所のテーブルには、飲み物の瓶があり、正面にはぽっかりと一人分の空間が空いている。誰かを迎え入れているかのように見えた。今、女のはす向かいの席にいる男は、パーテーションで閉ざされたまま、三連休の旅行では温泉旅館に泊まろうか、それともリゾートホテルにしようか、などと話している。

ふと、女はおかしなことを思った。今すぐ自分の席を立って、はす向かいの男の電話をもぎ取って電源を切るか、それとも、新幹線で東京に行って男の目の前の席に座るか、どちらが実現可能だろうか?

はす向かいの男の方なら、ものの十秒でできる。

「奥さんとの会話を聞いてるのがつらかった」と言えば取り繕えるだろう。

実現可能。東京に行って男の目の前に座ることは? できなくはないが、女にとっては実現不可能な部類だ。

だがこうも思う。本当に実現可能な方を選ばないといけないのだろうか。選びたい方を選んではいけないのだろうか。また「反省事項」が増えそうだと思いながらも、女は、固まっていたパソコンの画面を動かし、新幹線の時刻を調べ始めた。

※本記事は、2021年11月刊行の書籍『Wish You Were Here』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。