「ここで学べて良かった」といえる教育ができているか?

教育の世界で「教育の成果」などという確固たるものはありませんが、私の教育に関わった「子ども」が将来社会に出て、何らかの話の拍子に自らの「子ども」の時代を「ここで学べて良かった」と言ってもらえるかどうかということが、そこで受けた「教育の成果」として一つの目安になるのではないかと考えます。

少なくとも、その時代を好印象で捉えてくれているというのは、何らかの形でその「人」に対しての成長に携われたということになるのではないでしょうか。

「見栄えの良い授業」や「そのときのさまざまな結果」も大事ですが、それ以上に大切なことは、社会の一員となってふと「子ども」のときに過ごした自分を振り返ったとき、「あのときのおかげで」とか「あのときに頑張れたことが」と言ってもらうことができれば、それ以上の教育者冥利に尽きることはありません。

本来の教育の成果を実際に確かめるのは難しいことかもしれませんが、そういう長い目で見て、世界のどこかで「子ども」の時代を振り返りながら、それを支えに頑張ってくれていることが理想なのです。

「子ども」と関わっている、そのときを大切にすることはもちろんですが、それ以上に、そのとき教育したことが将来役立って、その人の生活を支える力となり得ているのかが重要なのです。

その場だけの満足で「その先のことまでは責任ない」と当たり前のように言い放って、自己満足をしているところはないのか。教育者としての器を自ら狭めるようなことだけは避けなければいけないと思っています。

「子ども」の将来の姿に教育的価値を見いだす

※本記事は、2021年6月刊行の書籍『「子ども」が「人」に育つには』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。