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第1部 生い立ち

未央、未来に向かって羽ばたけ

私は1987年、東京の産科病院で産声を上げた。母は娘の誕生に心を躍らせた。母が私につけた名前は未央みおだった。

母は映画監督の羽仁進と、女優の左幸子の子どもである羽仁未央の生き方に共感していた。

羽仁未央はこの時、23歳。幼い頃から海外生活が長く、9歳の頃、父親が制作したドキュメンタリー『動物家族』のロケのためケニアで過ごす。小学校4年以降、学校に通わず、家で勉強する。10代の頃から映画の批評をするかたわら、短編小説を書く。当時、香港に在住していた。

母は私にも羽仁未央のように自由に世界に羽ばたいてほしいという願いを込めて未央と名づけたという。その母を私は惑わせることになる。

生まれた時、「先天性股関節脱臼せんてんせいこかんせつだっきゅう」に罹っていた。

出生前や出産後の発育の過程で、股関節が脱臼を起こしてしまったのである。そのため、ハイハイができるまでの生後一年、ギブスをつけていた。レントゲン撮影の結果、成長する過程で股関節ができて歩けるようになるかもしれない。といわれ、祈るような育児生活の日々が続いた。

母の願いが天に通じて、ギブスが取れ、歩行できるようになる。元気に保育園に通う。小学校は父の転勤等で江戸川区葛西にある小学校、長野県佐久市の小学校、千葉にある小学校と転々としたが、世相でいわれる転校によるいじめなどにもあわず、楽しい学校生活を送った。

勉強も好きだったが、運動も大好き。水泳、新体操で、時間の経つのも忘れた。中学校は千葉市立打瀬中学校で三年間、学んだ。

打瀬中学校の教育目標は「人間性豊かで創造性に富み、たくましく生きる生徒の育成」である。母が求める未央の教育イメージと似ている。中学校では多くの友人と出会うことになる。英語の得意なGさん。数学の得意なHさん。なかでもMさんとはデビューしたばかりの「嵐」に夢中になった。

2009年、「嵐」が紅白歌合戦に初出場した時はエイ、ヤッターとMさんと歓声を上げた。

「嵐」は歌も軽快で乗れるが、フリがすてきである。そんな影響もあり、ダンスに興味を持つ。ダンスは体で人間の喜怒哀楽を表現する。すばらしい踊りである。カルチャースクールのダンス教室に通う。