ウランの濃縮法には、気体拡散法と電磁分離法がありました。遠心分離法も考えられていましたが、技術が未確立と判断して、前述の二つに絞ってそれぞれ独自に開発を進めました。後に気体拡散法だけでなく、熱拡散法も採用されます。

気体拡散法というのは、[図表1]のようにウランのガスに圧力をかけて小さな穴の開いた膜(隔壁)を通すと、ウラン238よりも軽いウラン235のほうが先に通るので、このような膜の透過を3000回繰り返せば、ウラン235の濃縮ができると考えたものです。

[図表1]気体拡散法

しかし、この実現のためには、原子が通る微小な穴(直径0.1μmの穴が数十億個)の開いた隔壁の製作、圧力をかけるポンプの開発、非常に反応性の高いウランガスと反応しない材料の開発が必要でした。

これらを国中の技術者に働きかけて開発を進めます。「核兵器を作るため」という目的説明はせず、「国が戦争で勝つために大事な開発である」と説明し、惜しみない資金を提供して研究開発を支援します。

ニッケルがウランガスに耐える材料であることがわかり、ニッケルメッキをする技術を自動車会社のクライスラーにお願いして開発してもらいます。細い穴を持つ隔壁の開発は困難を極めます。可能性があるものとして印刷機のフィルタも集めたりしています。

隔壁を作る方法として板に穴を開ける方法と粉を固めて空隙を残す方法の二方向から探索します。ポンプもウランガスに耐える新しいポンプの開発を行う会社を抜擢します。

一方、電磁分離法はウランを真空中で走らせ、磁場をかけると質量の異なるウラン235とウラン238の曲がる角度が異なるため、ウラン235だけを捕獲していこうという考えです。

これらの技術開発を進めながらオークリッジに工場建設を同時に進めます。まだ技術も出来上がっていないのに、どうせ電気がいるだろうと考え、発電所を先に建設しました。

電磁分離法の工場を作るには、磁界を発生させるために銅線のコイルを大量に作らなければならないのですが、当時は銅線の生産が不足していて間に合いません。そこで、「銀なら中央銀行にあるはずだ」ということで中央銀行から銀の塊を持ってきて銀でコイルを作ることまでしています。

プルトニウム爆弾の開発はウラン爆弾とは別に、フェルミのいたシカゴ大学での天然原子炉の成功を基に、デュポンにワシントン州シアトル郊外のハンフォードにプルトニウム生産工場の設立を依頼します。ハンフォードには天然原子炉とプルトニウム分離工場、そして、プルトニウム爆弾を組み立てる工場を作ります。

プルトニウムはウラン以上に強力な放射能を持つので、その取扱いのために遠隔操縦装置などを開発します。ちなみにハンフォード工場は今でも、アメリカで最大の核汚染場として残っています。

そして、核爆弾の設計を行うロス・アラモス研究所を作り、オッペンハイマーを所長として物理学者を集めます。原子爆弾の仕組みを[図表2]に示します。

[図表2]原子爆弾の仕組み

ウラン爆弾はウラン235を二つに分けておいて、その両者をぶつけて核分裂を行わせるという「砲弾方式」を採用しました。プルトニウム爆弾の場合は同じように二つをぶつけてもすぐに拡散して核分裂が続かないことがわかったので、中心にプルトニウム6.2kgを置いて、周りから爆圧をかけて反応させるという、物理学者のネッダーマイヤーが発案した「爆縮法」が採用されました。

この爆縮法において、極めて短時間に同時に爆圧をかけるための起爆装置の配置を設計したのが、後にコンピュータを発明するノイマンです。早く反応する火薬と遅く反応する火薬を組み合わせて「32面体」構造を作り、起爆装置を各面に配置すれば、同時に均等な圧力をかけられることを見出しました。

ロス・アラモス研究所には1000人の研究者が集められ、理論部門、実験部門、化学部門、軍需品部門に分かれて研究しました。

ウランの濃縮は、気体拡散法と電磁分離法のそれぞれの方法では達成しなかったのですが、気体拡散法で7%程度まで濃縮し、さらに気体拡散法で濃縮したものを使って電磁分離法で濃縮すると達成できるということが1945年になってわかり、それまで開発してきた二つの技術を連動させることでウランの濃縮に成功します。こうしてやっと3kgのウランが得られ、ウラン爆弾が作られたのです。

プルトニウム爆弾のほうは同じく1945年に1個目が製作され、アラモゴードで世界最初の核実験が行われました。その破壊力のあまりのすさまじさに人々は驚きます。ちなみにウラン爆弾のほうは実験する分もなかったので、ぶっつけ本番で実戦投入として、ハワイ沖のテニアン空港へ運ばれます。

このウラン爆弾を積んだB29エノラゲイが広島に8月6日に原爆を投下しました。一方のプルトニウム爆弾は、同じくテニアン空港から飛び立ち、8月9日に小倉を目指しますが、小倉での天候が悪く、長崎上空で雲の切れ間が見えたため、長崎に投下されました。

アラモゴードでの実験を知った物理学者の多くが、このすさまじい爆弾の使用に反対しました。しかし、グローヴスはそれまで開発してきた結果を成果として実現することしか考えていませんでした。

すでにドイツは降伏し、当初の目的であった「ナチスドイツに対抗するため」という大義はなくなっていたのですが、アメリカは戦後、この核爆弾の力で世界に圧倒的な力を持っていることを示し、世界の支配をリードすることを第一に考え、そしてソ連の参戦に対して歯止めをかけるために原爆の投下を遂行しました。

※本記事は、2019年4月刊行の書籍『人と技術の社会責任』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。