初デートは中学二年の時、順司にさそわれて行った、名古屋の(みなと)(まつ)りだった。港まで続く幅広い道路の舗道の両脇には出店(でみせ)が立ち並び、道路では盆踊りなどのパレードが行き来し、かなりの人出である。二人はたくさんの会話をしながら、出店をのぞいたり、金魚すくいをしたりしながら、花火会場の埠頭(ふとう)へと向かった。

港祭りは、中学で初めてつき合ったカップルがデビューする場所として有名だった。埠頭は多くの浴衣姿の人たちでびっしりうまっていたので、順司は私の手をギュッと握った。

そして大輪の花火が終わり、二人はずっと手を繋いだまま、バスに乗らず徒歩で、運輸省官舎へ向かった。途中、歩道の脇の、堤防のようになったところで、二人並んで腰かけ、足をブラブラさせながら行きかう車のライトを見つつ、しばらく話をしていた。

すると『この人と、ずーっといっしょにいたいな―』という気持ちがわき上がってきた。これが、恋というものだろうか。私は今も、足をブラブラさせて、おすわりしている人形が好きで、街でおすわり人形を見かけると、その時の気持ちを思い出してしまい、ついつい購入してしまう。

高校も同じ愛知県立熱田(あつた)高校に通い、ゲタ箱にメモが入っていると、部活のあとに待ち合せて彼の自転車の後ろに乗り、いっしょに帰った。大学は、彼が東京の青山学院大学で、一方の私は親元を出ることが叶わず、名古屋でお嬢様学校とも呼ばれる愛知淑徳大学に通う。大学卒業まで四年間は遠距離恋愛だった。彼は大学四年間で、百個以上のカセットテープに、自分の声を入れて送ってくれた。

最初に運命が動いたのは、彼が、当時、東海銀行に就職し、名古屋駅前店勤務となり、私が歩いて五分の(株)ニッタという、トヨタ自動車のゴム部品を作る会社に事務で就職したことからだっただろうか。すぐに結婚し、長女が生まれ、三年後には長男も生まれ、可愛い子供たちに恵まれて大変幸せな日々だった。

順司は優秀で、東海銀行の東京本部に転勤になり、そして、三年半の吉祥寺(きちじょうじ)での生活のあと、栄転コースと言われている、東北の拠点の仙台支店へ転勤となり、順調に行けば、三年後に東京本部に戻るという、出世コースに乗っていた。しかし、東京本部勤務のころから、仕事に行きたくない日が、ポツリポツリと出てきていた。

※本記事は、2021年10月刊行の書籍『座敷わらしのいる蔵』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。