【前回の記事を読む】お調子者の少女が顔面蒼白…「黒塗りの車に文旦をぶつけた」

第一章 大自然の中で

私が小学二年生に上がる春休みのこと。玄関の掛け時計の上に、燕が巣を作った。朝から忙しく雛鳥に餌を与えている親鳥を眺めていると、お父さんが珍しく酒を飲まずにテキパキとでかける支度をしていた。

ポカポカの春の陽気に似つかわしくない上下のウインドブレーカーを着込み、首には手拭いを巻きつけて、長靴にきっちりズボンの裾を入れていた。そして、燕の巣の下の姿鏡でその格好をチェックし、うんと一つ頷くと、グルッと周囲にネットを装着した単車用のヘルメットを被った。最後に、そのネットを首元の手拭いにグイグイッと押し込み、気合のこもった声で言った。

「よっし! 行ってくるけん」

私には、その奇妙な格好がたいそう不気味に映り、恐々とお母さんに尋ねた。

「お父さん、何処行くん?」

「蜂の巣を採りに行くんやって。鱒下のおっちゃんらぁと。ほら、奥のみかん畑の入り口に毎年蓮の花が咲くやろう。その池の前の大木に、大きなアシナガバチの巣ができたっていうけんね。その中の幼虫を焼いて食べたら、おいしいんやって」

「アシナガバチ」という響きが、その格好の不気味さをより際立たせた。私は一つ身震いをして、玄関先に出た。単車に跨がって軽快に家の前の坂を下っていったお父さんは、あっという間に山陰に姿を消した。ふと足元を見ると、働き蟻が行列をなし、家の壁の小さなひび割れに消えていく。その行列の最後尾を辿っていくと、庭先の松の木陰に行き着いた。

この松は、亡くなったおじいちゃんが植えた木で、お父さんが日頃からこまめに手入れをしていた。私は何処となく気持ちが落ち着かず、その行列に終わりが来るのを見届けようと、その場にしゃがみ込んだ。

しかし、一定のリズムで歩を進める蟻をしばらく眺めていると、手持ち無沙汰になった。悪戯心が働き、行列の上に大きめの石ころを置いてみた。最初は慌てふためいた蟻だったが、すぐにその石ころを迂回して再び一定のリズムで歩きだした。

「なーんだ」

もっと大きな石を掴んで行列の上に置こうとした時、川の向こうから単車の音が聞こえてきた。