その陶芸教室は、魅力的な教室だった。

東山の御陵駅を降りて、杉木立に囲まれた坂道を歩いて行くと小川が流れていた。川を渡ったすぐ近くの木造の一軒屋で、お公家様出身だと噂されていた六十代だとおぼしき、おば様と呼ばれていた女性と、四十代後半の五島列島出身の先生の共同生活だった。

堂々としていらしたおば様とは対象的に、先生はいつも恥ずかしそうだった。今、我が家に先生作の抹茶茶碗が残されている。たっぷりとしながら、刷毛目の線が思いがけず荒々しく、あのシャイな感じのする先生の裡にどんな情熱が秘められていたのか。今となっては知る由もないが、名品に囲まれて暮らした人だけが作れる見事な作品だと思う。

その家には、古備前、唐津、黄瀬戸、志野、伊賀焼きなどの名品がたくさんあって、美術館が借りに来るぐらいだから、きっと本物だったのだろう。今となっては幻の家のような感じがする。木造の一軒家に名品がたくさん所蔵されていたなんて……京都も今とは違ってのどかであった。おば様は若い人たちに焼き物の魅力を教える熱意に燃えていらして、春と秋には虫干しと称して、私たちに作品をお披露目してくださった。

尾形乾山作「銹絵梅図角皿」を手にした時、私は一本の銹絵の線にギョッとした。何だか命がうごめいているような気がして、ちょっと怖かった。

野武士のような風格をした古伊賀のずっしりした重さの花器の風情も大切な思い出である。おば様の交友関係はとても広く、小山富士夫、荒川豊蔵の釜の見学にも連れて行ってくださった。

完成したばかりだという小山富士夫の邸宅の庭の玉砂利はとても美しかったし、威厳を感じさせてくれた荒川豊蔵の黒光りした登窯の存在と庭の風情は、作家・芝木好子の『美の季節』にも登場して、時々懐かしく思い出す日がある。

その頃から、柳宗悦を中心とする民芸運動に関心を持つようになった。名もなき人たちの日用品の中に「用の美」を発見するという考え方を素晴しく思ったのは、育った環境のせいだったのかもしれない。

朝鮮陶磁器・李朝ものをよく見て歩いた。

安宅コレクションを観た時の感動も忘れられず、「ものの哀れ」は、このような美となって存在するのかと思ったことがあった。

大原美術館近くの陶芸店で、鎌倉時代海底から無傷で発見されたという須恵器にミヤコワスレが生き生きとたくさん生けてあるのを眺め、器というものは控えめで、花を引き立てるものなのだと感心したことがあった。そして、井上靖ならこのロマンあふれる須恵器をモデルにして素敵な小説を書けるだろうにと、残念に思ったりした。

「李朝白磁大壺」の乳白色の美しさ。「私を見て。どう美しいでしょう」といった自己主張する美しさではなく、もっと慎ましい優しく包み込んでくれる世界に連れ出してくれるように思えた。このような美の世界を生み出した朝鮮という国を、尊敬する。

私はおかしな人間なので、当時河井寛次郎記念館の近くにあったホテルでわざわざ皿洗いのアルバイトをして、たっぷりと汗を流し、記念館に通った。すると作品たちが、「ごくろうさん。ゆっくり眺めていきなさい」と言った感じで迎えてくれるようで嬉しかった。記念館で購入した寛次郎著『六十年前の今』は、大切な蔵書である。

※本記事は、2021年9月刊行の書籍『永遠の今』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。