【前回の記事を読む】自分を言い当てられたよう…思わずギョッとした井筒俊彦の言葉

第三章 器

焼き物の中の小宇宙

初代長次郎作で、利休所持とされる瀬戸黒の抹茶茶碗「小原木」そして「小原女」。漆黒の細調は哀しい音色を奏でているような、泣き濡れて涙で光っているような感じがした。並んでいる器は、夫婦か恋人のようでもあった。

井上靖の「玉碗記」のように、かつてペルシャのある湖畔で生まれた二つの硝子の器物が、数奇な運命を辿りながら長い年月の果てに再会を果たしたように、土と炎から何らかの計らいで誕生した二つの茶碗のようでもあった。

なぜこんなに悲しく映るのだろうとも思った。アパートに帰ってからも、私は毎晩のように本を眺め続けた。なぜか飽きるということがなかった。音楽もそうなのだが、同じ曲を何度も聴くので夫に嫌がられる。「小原木」も「小原女」も時間の経過とともに、その悲しみはいつしかゆっくりと優しさに変わり、何か大きな安らかなものに包み込まれているような気がした。

悲しみと優しさの共存。光あふれるものと闇の部分の共存。器の中には二つの相反するものがあふれていて、それでいて凛とした風格を漂わせている。何と不思議な器達なのだろう。時には私自身が器の中に入り込んでいるような気分を味わった。

そして、京都市美術館の「利休特別展」で本物に出会った日、本物の「小原木」は想像していたよりやや小振りだったが、様々な想いを宿し、瀬戸黒第一級の名品として時を越えてきたものへの揺るぎない存在感に心打たれ、恥ずかしかったが友だちの前で泣いてしまった。

その頃、私も土いじりがしたくなって陶芸教室に通うようになっていた。仲間たちに「名品って悲しいのよ。でも、悲しいだけでなく深いのよ。優しいのよ。負けてないのよ」などとわけもわからないことを言っていたのだが、誰も相手にしてくれなかった。「小宇宙」という言葉を知っていればよかったのに。