こうして作った番組は面白い上に強い説得力があり、科学バラエティらしい構成スタイルが誕生したと自分では評価している。さらに運のいいことに、この番組に出演した大学教授の紹介で妻との付き合いが始まった。

「科学時代」の担当の先輩たちは「夢あい」と競う中で、本来の科学的な構成よりも面白さを重視するという影響を受けていたようだと感じたがそれを口にすることはしなかった。しかし「科学時代」は基本的にスタジオ番組で科学ドキュメンタリーと言えるものとは程遠かった。

今から見ると制約が多いスタジオ生番組はまるで刑務所の部屋で映画を創るようなもので、広大な屋外で撮影するのが基本のドキュメンタリーへのPDの欲求は時がたつに連れてますます強まっていった。

台風の目に空から突入するスクープ番組を企画

「科学時代」のタイトルのままでスタジオ形式からドキュメンタリー形式に変更したのはCP(チーフ・プロデューサー番組班長役)が太田善一郎氏に変わってからだった。映画部から異動してきた太田氏はフィルム作品に知識豊富で、変更のきっかけになったのが、私が企画した「台風の目をとらえる」であった。

この番組は九州に上陸寸前の台風に飛行機で突入し、荒れ狂う台風の中を9時間も飛行して撮った映像を日本のテレビで初めて放映したスクープ番組である。このスクープ映像は疲れ切った私たち取材班より先に、NHKに運ばれ、数分に編集して夜7時のニュースの目玉アイテムとして放送された。

当時、教育局に所属していた私はこの番組を自分が担当する「科学時代」で放映した。ニュースより1週間も後のことであった。それにもかかわらず私の番組は3大全国紙のテレビ欄のコラムで写真入りで取上げられ大好評を得た。河野カメラマンと私には「教育局長賞」と「報道局長賞」が同時に与えられるというかつて無い珍事も起きた。

それまで始末書事件以外では目立たなかった私が一躍同期の間で知られるようになったのは入局4年目のことであった。今振り返ってみると、この出来事の中に、その後10年続いた私の番組制作「成功の秘訣」の芽生えがあったように思える。

※本記事は、2021年11月刊行の書籍『私はNHKで最も幸運なプロデューサーだった』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。