船は、五年前に男大迹が半島との交易を任された時、百魚や船工らと工夫を重ねて造り上げた船で従来の船より一回り大きく、全長八丈(約二十五メートル)、幅は一丈余(約四メートル)ほど。船首と船尾に跳ね上げるように立てた波除板(なみよけいた)と底の刳板(くりいた)が海上で大きく口を開けた勇壮な鯨を連想させた。

舷側にも波除板を設け、漕ぎ手は十六名。船のほぼ中央に粗末ながら屋根つきの小屋を設え、潮風を嫌う積み荷の保管と船主(ふなぬし)(男大迹)の居所としている。前後に帆柱を高く掲げ薄竹を網代に組んだ帆を用意しているが、当時の航海は陸地を確認しながらの手漕ぎ航海が主で、よほど安定した追い風でないと帆では進路を確保できなかった。

風の具合を見定めるため船尾側の帆柱の先端には細長い旗を吹き流している。男大迹は船に乗り込むや安羅子の姿を捜した。彼は(とも)の舟底に端座して目を閉じていた。男大迹は声をかけようと近づくが思いとどまり心の中でつぶやいた。

〈これより(ツヌ)鹿()(現在の敦賀)までひと月余り、旅路の無事をそちに委ねる。頼むぞ〉

安羅子は人の気配を感じてか、眼を開け男大迹の顔をしばらく見つめていたが、また静かに眼を閉じた。男大迹の胸に不憫な想いがあふれてきたが、何も言葉をかけることもなくその場を離れた。陽に輝く金海の入り江から男大迹の船は出航した。船尾の一段高い横板の上では、船頭の百魚が風の具合を見計らいながら()()たちに手振りで指示を出していた。

鵜野真武と安羅子が連れ帰る馬は、船の前後左右に設えた波除けの側板に一頭ずつ繋がれ、真武と数人の馬飼いが面倒を見ているようだ。航海は皆の願いを受けたようにすこぶる順調であった。

対馬から()()(壱岐)、そして(ナツ)の津(現在の博多)で船泊りと潮待ちをして穴門(アナト)(現在の下関)では存分の酒食と休息で水主たちも英気を養い、その後の航海に備えた。穴門から船は瀬戸の内海ではなく、進路を北に取り「北の海(日本海)」を目指した。

越の男大迹の船であり角鹿そしてその先の三国湊を目指すため当然ではあったが、この時代の大船の航路としては、瀬戸の内海は荒れることは少ないが、島並を巡る潮の流れが急で浅瀬の難もあり、行き先にもよるが日本海航路が選ばれることも多かった。

※本記事は、2021年12月刊行の書籍『継体大王異聞 【文庫改訂版】』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。