ある日、大成建設の知人が訪ねてこられ、先生に融資したい銀行があるとの情報を頂いた。誰に聞いたか知らぬが、私が開業するという噂は地元にも流れていたのであろう。彼は私を某銀行の融資部長に紹介してくれた。

融資部長は開口一番、「先生、5億ですか、10億ですか、15億ですか、いくらいりますか」ときた。私はそれには驚き、担保は何もありませんよと言うと、その融資部長は「先生が担保です」という。彼らは私の中央病院時代における仕事ぶりを良く調べていたようだ。

バブル破裂後の銀行は融資基準を大幅に変えていた。バブル崩壊騒動で土地は各銀行ともゲップが出るほど持っていた。「今はその土地の上で何をするか、何が出来るかが融資の基準です」という。「だから先生には先ほどの金額を提示させてもらいました」ときた。その日私は考えさせてくださいと言って帰り、専門病院として必要と考えた40床の病院を3人のドクターで回し、広い駐車場を確保するにはどれほどの金額が必要かを概算した。

バブル崩壊の後遺症はすさまじく、バブル前に計画し、バブル後に完成を見た事業体は軒並み苦境に立たされていた。私は病院の全体のイメージを、サンダル履きで気軽に出入りできる施設にしようと決めた。当時イトーヨーカドーのセブンイレブンの鈴木敏文社長がテレビに出て、これからの会社は土地建物なんでも借りられる物は全て借りてやるべし、買うべからずと話していたのを思い出し、土地は全て借りることにした。

その結果、6億あれば40床の病室と外来は出来るとの結論に至った。これら一連の事を、病院経営をしていた私の兄貴に話した。「バカ、征三」が開口一番の言葉であった。お前は何を考えているのか、医療界が今どれほど厳しいかお前は知らないとけんもほろろであった。病院経営に関わる先輩10人に同じ質問をぶつけたが、反応は全員兄貴と同じであった。

その中でただ一人、胃腸系の専門病院を運営していた竹馬浩先生だけが、「先生のご専門ならまだ聞いたことがないし、一歩踏み出してもいいのではないですか」と肯定的な返事をしてくれた。

それほど当時の病院経営者の状況は厳しかったようである。私自身は逆にこれほど皆が総すくみの時であればむしろチャンスかもしれないと手前勝手に考え、予定通り6億5千万円の融資を受け、東広島市のはずれの国道沿いの1500坪の土地を借り、全国初の内科系リウマチ膠原病専門病院を建設した。1994年8月、56歳の遅い開業であった。

※本記事は、2021年9月刊行の書籍『心の赴くままに生きる 自由人として志高く生きた医師の奇跡の記録』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。