凱旋した範頼、義経を引見し、法皇は二人の差を改めて感じた。義経を傍に置きたい、と。しかし、ただ一つ法皇には不満があった。

『三種の神器は取り戻したか』という事であった。

それは、海に逃げ出した平家からは無理であった。源氏には船がなかった。わかっていても法皇は愚痴を言いたかった。

「あれがなければ、安徳の皇位を奪い新皇を立てられぬ」

しかし、神器が安徳天皇の元にあるまま、後日法皇は平家の血が流れていない安徳帝の異母兄を後鳥羽天皇として祀り上げた。従って天皇が二人存在することになったのだ。

頼朝も大勝に耳を疑った。何度も聞いた、大勝いや圧勝だったという。しかし、景時の報告書に義経の名はなかった。『範頼を補佐した自分の功が大きい』と事細かに書き連ねてある。義経の報告書にはただ勝利したとだけある。義経にとって勝ったのは当たり前という、頼朝から見ると思い上がった空気が読めた。

しかし、やがて義経の活躍振りが耳に入ると、その戦術の奇抜さに、思っていたより有能であると警戒感を覚えた。自分には戦の才能がないことを自覚している。それよりも義経の評判の良さが気になる。そして、何より危惧したのは、法皇が義経を気に入って繁く呼び寄せているということだった。

「これは勝ち過ぎですな」

頼朝の側近、大江広元がつぶやくように言った。

鎌倉から一の谷合戦の恩賞としての除目上奏案が院に届いた。それには別紙として義経の処遇に関する三項目もあった。

  一、近畿地方における武士は全て義経の指揮下に入ること

  一、平家を討つための渡海戦は船の不足で困難なれど、日ならず作戦を開始し、その総大将には、義経を任ずること

  一、将士の行賞は、院が勝手になさらないこと。頼朝が後日取り計らうものとする

第一、第二の項目については法皇も異存はない。ただ、第三項を聞いて法皇は怒った。

「なに、院宣によって編成された討伐軍は頼朝の私兵ではない、官軍であろう。その賞罰権は朝廷の専権事項である。たかが兵衛佐(ひょうえのすけ)という卑官がなすものではない。頼朝は狂ったか、増長したか」

「頼朝は、鎌倉軍についての選考をお任せ願いたい、と申し入れてきただけと思います」

頼朝に(おもね)る側近の一人が取り成した。

「そうか、ならば承知したと伝えよ」

※本記事は、2021年10月刊行の書籍『小説 静』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。