二男はその後、薬もしっかり飲めず症状が悪くなります。お盆の準備が始まった八月一〇日、ようやく自分から薬を飲み始めることができました。そして、音楽については全く語ろうとも聞こうともしなくなりました。まるで繭の中に入ったように外界の音をシャットアウトして、今まで一度もやってこなかったことをゆっくりゆっくりし始めました。

 

家の中はテレビの音もラジオの音もありません。田舎ですから、外に出ても音はありません。雨の音、風の音、小鳥の声、時々の飛行機の音、学校帰りの子どもの声……私たちも、静かに寄り添って外仕事をしました。息子の活動を見守り、ツィンツリーと名付けた木の下の石のテーブルで、ティータイム(腰伸ばしタイム)を日課としました。繭の中で自分を守り、少しずつ外へ出られるようになっても繭は潰されることなく五年間が経っていきました。

この繭が潰され、自らも壊していったのは、当事者との密度の高い交流(就労移行支援事業所)だったと思います。良くも悪しくもやがて繭から出なくてはなりません。

満月を見ながら 吾子は歩いたか 二八キロ六時間半(二〇一二年六月)

 
 
 
※本記事は、2021年12月刊行の書籍『なかむら夕陽日報【文庫改訂版】』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。