【前回の記事を読む】第二次大戦下、敵国による空爆激化の中…英首相が下した決断

アメリカの原爆開発「マンハッタン計画」

マンハッタン計画の発足

一九四二年六月、ルーズベルトは原爆開発計画を秘密裡に開始させ、総括責任者にはレズリー・グローヴス准将を任命しました。

一九四二年九月にグローヴスを統括指揮官とする秘密国家プロジェクト「マンハッタン工兵管区」(名称は偽装です)が開始されました。通称マンハッタン計画と呼ばれる原爆の開発・製造プロジェクトでした。マンハッタン計画は、最終的には一三万人の人員と二二億ドル(現在の貨幣価値に換算すると二七〇億ドル〈約三兆円〉)の経費が注ぎ込まれました。二八ヶ所に研究関連施設が建設されました。

計画に参加する科学者たちのリーダーに選ばれたのは物理学者のロバート・オッペンハイマーでした。オッペンハイマーの提案で、一九四二年一一月にニューメキシコ州ロスアラモスに研究所が置かれることが決定されました(サイトY、のちのロスアラモス国立研究所)。

彼を研究所長に、エンリコ・フェルミ、ジョン・フォン・ノイマン(爆縮レンズの計算担当。後述)、オットー・フリッシュ、エミリオ・セグレ、ハンス・ベーテ、エドワード・テラー、スタニスワフ・ウラムなど著名な科学者のほか、リチャード・ファインマンなど若手の研究者やハーバード大学やカリフォルニア大学など名門校の学生など、延べ三〇〇人の科学者が集められていました。一九四三年四月にロスアラモス研究所が完成、家族を入れて六〇〇〇人が移住しました。

ロスアラモスの他にもシカゴ大学冶金研究所やカリフォルニア大学バークレー校など多くの施設がマンハッタン計画に参加し、アーサー・コンプトン、レオ・シラード、アーネスト・ローレンス、ジョン・ホイーラー、グレン・シーボーグなど、延べ一二〇〇人の科学者が協力しました(ノーベル賞受賞者が二五人参加していました)。

ウラニウムの分離施設と計画の司令部はテネシー州・オークリッジ(サイトX、のちのオークリッジ国立研究所)に置かれました。オークリッジに巨大なウラン濃縮工場が建造され、二年後の一九四四年六月には高濃縮ウランの製造に目途がつきました。

プルトニウムの抽出はワシントン州・リッチランド北西郊外(サイトW、のちのハンフォード・サイトで現在もアメリカで最大級の核廃棄物問題の研究所)で行われました。アメリカ以外ではカナダのモントリオール大学が計画に参加しました。

ケベック協定原爆の英米加共同開発

イギリス国立公文書館所蔵ファイル(FO800/540)によりますと、英米は原爆を共同で行うこととして、一九四三年八月、ルーズベルトとチャーチルはカナダのケベック州で会談し、原爆の共同開発の進め方と使用原則について協議して次のような秘密協定(ケベック協定)を結びました。

① 開発された兵器(原爆)を互いに攻撃するためには使用しない。

② 第三国に兵器を使用する場合、お互いの同意が必要。

③ 両国の同意がない限り、イギリスの計画「チューブ・アロイズ」に関する情報は流さない。

④ 開発に当たってアメリカの負担が大きいことを認める。などでした。