【前回の記事を読む】暗黒時代の苦しみから生まれた英知…神秘主義に宿る精神とは

井筒俊彦

子どもの頃の記憶の、自分でも気づかなかった奥深くのパンドラの箱を開けたような気分に陥ってしまった。何かに憑かれるように、性懲りもなく『意味の深みへ』『意識と本質』や『意識の形而上学』まで購入してしまった。パラパラとページをめくったにすぎないが、この人物は、メタ意識を持つ日本でもたぐい稀な人なのだと思った。

『意識と本質』の中には阿修羅まで取り上げられていて、「平凡な常識的人間の平凡な意識は、まさに平穏無事。もし怪物たちが自由勝手に表層意織に現はれてきて、その意識面を満たし支配するに至れば、世人はこれを狂人と呼ぶ」と書かれてあり、ぎょっとしてしまった。古い友人が、私のことを当時、その辺にいない人と言い、後にクレージーと笑ったが、私は昔から狂人的人間だったのだろうか。

『意味の深みへ』の中の次の文章に釘付けになってしまった。

「いったん『無』的体験を経た人の意識は、日常的経験に戻ってきても、そこに展開している現象的物事の有様を観想を知らない人々とはまったく違った目で見ている。つまり、日常的経験の次元においてすら、存在を『こん沌』的に見ていたのです。『無』に触れることによって、意識そのものが根本的に変質してしまっているのですから当然です」と。

またある種のイマージュだと思うのだが、孔子を例にして「無限に広がる宇宙空間。虚空、を貫いて……太古の森の中には……天の風によって喚びおこされたものである」などの描写は、子どもの日の杉の葉拾いの一日とどこか重なるのである。仏教の「真如」に辿り着く流れも独特である。コトバの意味するもの、人は書くことによって思考するということも、何となくわかるような気がした。神秘という意味で、この人物と小林秀雄はどこか似ている気がしている。

それに斎藤慶典先生(慶應義塾大学の哲学者)の解説が、また私を驚かした。井筒先生を学問へと導いたのは、あの『旅人かへらず』の西脇順三郎だったことや「神秘主義」の解説が詳しく述べてあるのだから。何だか今頃になって無駄なものは何一つなくて、すべてがつながっていたように思えた。ふいに、釈迢空の歌が浮かんだ。

くずの花 踏みしだかれて 色あたらし この山道を行きし人あり

色は新しくなんかない。山道は遙か遠い遠い険しい道である。浅い理解しかできていないので、心身でわかるようになるには、生きている間はおそらく無理だと思う。しかし薄明の中をうろうろしている間に、小さな日輪が姿を現す日が来ないとも限らない。ノートを綴り始め、私の拙い井筒俊彦への旅は今始まったばかりである。

人は何故学ぶのだろうと思った。

きっと自分のために学ぶのだ。

苦しみの多い、一回限りの人生を

豊かに生き抜くために。

大いなるものに導かれ

本当の自分に出会うために

願わくば私自身も

小さな鳥になって

高く自由に飛ぶために

イマジネーションは自由でいいのだろう。

私にとって、仰ぎみる蒼天は美しい照明。

その空近くまで飛ぶために。

強風や降り続く雪に耐えながら

大地でわずかばかりのえさを授かり

透明なものだけを抱え

自らが青い光線となって

流れ去るために……。