【前回の記事を読む】【エッセイ】「君らといたら、俺の人生悪くなるばかりや。」

三、人の出来ないことをやれ 祖父より

翌日、就職斡旋の先生に相談した。

先生は「働きながら夜学校に行くことは、体力的にも精神的にも大変なことやと思う。でも棚橋くん。君ならきっと頑張れると思う。よう決心したね。めげずに4年間頑張って立派に卒業しいや。頑張ってな。頑張りや。先生。進学手続きしておくから」と笑顔で両肩を叩いて励ましてくれた。とても嬉しかった。それから、高校入試の勉強に必死になって取り組んだ。

昭和27年(1952年)春。京都市立洛陽工業高等学校電気科定時制(夜学)に合格した。「正夫。よう頑張った。良かった。良かった」と祖父は、私の両肩を叩き、これまで見たこともない満面の笑みで褒めてくれた。本当に我がことのように喜んでくれた。

中学卒業後、先生の紹介で夜間高校の通学を認める前田豊三郎商店(酒醤油の卸業)に就職出来た。受付業務から始まり、その後は、経理事務をこなした。

暑い日も寒い日も、色々と辛いことも多々あったが、昼働いて夜学校に行くハードな生活を病気もせずに4年間、頑張り通した。

社会人として育てて貰った前田豊三郎商店に5年間、お世話になった。そして、私は松下電器(現パナソニック(株))へ転職することになった(後述)。そのことを前田社長に申し出た。

「棚橋君には、この会社にずっといて欲しい気持ちが強いのですが、君の能力からすると松下電器で活躍して貰った方が君のためには良いと思う。退職願いは、喜んで受理します。新しい会社で頑張って下さい」

とありがたい言葉で認めて貰い円満退社することが出来た。

松下電器就職のきっかけは、私が学校で電気の勉強をしていることを松下電器に勤務する叔母の知り合いの方が知っていた。その方が、ラジオの修理技術者を募集していることを知って、松下電器への入社を勧めてくれた。狭き門の試験にチャレンジし合格出来た。それは、私にとって、経験したことのない入社試験で、簡単に合格するのは難しいと思っていただけに、その合格通知を受け取った時は、私を含めて家族全員で計り知れない程の喜びを感じた。