【前回の記事を読む】余命宣告を受けた数時間後、お寺の階段を上ってゆく母の背中…

すずさんへの余命宣告

「ただいま」

相変わらず車内での会話は少なかった。今すぐやらなきゃいけないことを幾つかずずさんと確認した覚えはあるが既にオーバーヒートしている頭では処理に追いつくことができるわけもなく、普段より重たく感じる玄関の扉を引いた。何故こんな時に浮かぶのは保険とかローンとか金銭絡みの事務的なことばかりなのだろうか。

「おかえりパパー。あっ、ばぁばも一緒だぁ! わーい」

ドタバタと擬音通りの慌ただしい足音と共にかぁくんがリビングのドアを勢いよく開けた。今年小学生になった倅君は目下わんぱくに成長中。どんどん体も大きくなっていく反面まだまだ甘えん坊なところも多く愛らしい。その無邪気な笑顔にとても救われる。

「かぁくん、ただいま」ずずさんが明るい声で初孫に笑いかける。

「ばぁば、今日ね今日ね学校でね……」顔を綻ばせて今日のトピックスを報告をしようとするが台所から声がかかる。

「お義母さん、パパおかえりなさい。かぁくんは先にご飯の準備だよ。お箸並べ隊隊長でしょ? 二人は手洗いとうがいをしてくるからね」

「はーい」

「ばぁば、手洗いうがいしてくるね。それに着替えなきゃ」

ずずさんはそう言って奥へと歩いて行った。

リビング中に広がるごま油と味噌の香り。今日は豚汁かなと洗面台に向かおうとするとキッチンから妻のがちゃさんがひょこっと顔を出し心配そうな顔で僕を見る。多分表情である程度分かってしまうんだろう。一度頷いて食事の準備を再開しに戻った。

「パパあそぼぉ」

綺麗とは言えないけどしっかりと箸を並べ終えたかぁくんが駆け寄って来て無邪気に笑う。これがいつも通りの日常。我が家の普通。四人が揃って笑い合いかぁくんの成長を共有する。

それが失われるかもしれない……いや確実に着実に迫っていることを突きつけられた今日。僕は笑って小さな頭を撫でることしかできなかった。

こんな時どんな立ち振舞をすればいいんだろうか。父親として、夫として、一家の大黒柱として、そして息子として。ただ言えることは父親になって自分が「父親」を知らないことがよく分かった。

そう、僕には父親との記憶が全くない。四歳の時にいなくなった彼に対する感情は全くないのだが父になり何故僕は捨てられたのかとふと考えることが増えた。自分の子供はこんなにも可愛く守るべき無二の存在だというのに。頭を撫でられくしゃくしゃと笑うかぁくんを見ながらふと記憶を巡らせる。四歳まで過ごしたあの団地のことを。ずずさんが一番幸せだったというあの頃のことを。