瑠衣は、ウキウキしながら話を続けた。

「その年の定期演奏会では、井上先生に指揮を振ってもらうことになっていました。曲目は、バッハの『トッカータとフーガ』とワグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガーより第一幕への前奏曲』でした。洋食屋でお昼ご飯を食べ、学校の小体育館に着くやいなや合奏練習に入りました。

島田先生は指揮棒を持ち指揮台に立ち、私はフルートでしたので先生の目の前でした。井上先生は、指揮台から二十メートルほど離れた真後ろのパイプ椅子に足を組んで座っておられました。島田先生が指揮台に立ちフルスコアに目をやる所作を見ると、足が小刻みに震えているのがよくわかりました。こんなに緊張しておられる島田先生の姿は見たことがありません。

二曲演奏し終えたところ井上先生が少々不機嫌な顔で、『島田くん、指揮棒借りるよ』と指揮台に歩み寄り生徒たちにこう解説されました。

『バッハのトッカータとフーガの原曲はパイプオルガンだということ、諸君は知ってるよね。バロック時代のパイプオルガンは、強弱、音色は変えることができてもクレッシェンド、デクレッシェンドできません。そのことをよく覚えておきなさい。島田くん、君も基本的なことを忘れるとバチが当たるよ。この曲はオケやブラスで演奏する機会が多いが、面白おかしく奇麗に見せようと思ってやると、とんでもないしっぺ返しを食うからね。楽譜通りの強弱で、羊羹のように真っすぐ均等に音を出すことに専念し、私を見なさい』

と言われ吹きました。

島田先生には失礼ですが、私たちでも見違えるような演奏になっているのがわかりました。ワグナーも、井上先生が指揮を振られるとこうも違うものかと部員全員が感動したのを今でも覚えてます。翌日の定期演奏会当日リハーサルを終え、本番直前になって井上先生は私たちにこう訓示されました。

『いいか君ら。今まで練習してきたことをすべて忘れなさい。僕の指揮棒一点に集中し、ついてきなさい』と言われ、カーテンが上がり定期演奏会が開演しました。演奏し終えたとき、私たち部員は呆気にとられ、『違う。違う。私たちの演奏じゃない』と口々に興奮してました。そのときの演奏の録音を聴き直したところ、一つの音楽として完成しているのに驚きました」

瑠衣は興奮して、両手を拳に握りしめ話を続けた。

「カーテンコールのあと部員全員を前に井上先生が、『今日の演奏のように、基本に忠実に生きなさい。このことは音楽に限らない。君らは社会に出ていろんな困難にあうでしょう。そのときはここで一生懸命演奏したことを忘れずに勇気を持ちなさい。どうしていいのかわからなくなったら、どんな音楽でもいいから心の糧として“音楽の友人に語りかけなさい”』と言って去って行かれました。井上先生のお姿を拝見したのはそれが最後でした」