切り立った崖からは轟々と、まるで龍の鳴き声のような音を立てて滝が湖に降り注いでいる。全てを白く染め上げる雪も、未だ降り注ぐ滝までは凍らせることができないようで、絶え間なく落下する水の音が辺りを支配している。

水際にはひとりの男が膝をついている。村はずれに母親と暮らす落ちぶれた武士であった。喪服を身に着け、目を赤く腫らしているようだ。雪の上に膝をつき、男は手で水を掬い顔を洗う。何度も、何度も。さぞかし冷たい水であることだろう。その顔もやがて真白になり、手と顔の感覚が消え失せると、男は大きな声で泣き始めた。

それでも冷水で顔を洗う手は止まることがない。

男はわんわんと声をあげながら顔を洗う。そうしている間だけ、誰にも泣き顔を見られずに泣くことができたのだ。舞い散る雪は男の姿を隠してくれる。轟々と響く滝の音は男の声を掻き消してくれる。

男の母親が亡くなってから一晩が経つ。流行り病であったそうだが、薬を買ってやる金がなかったのだ。どうせ平時は農民と変わらないのだ、刀や鎧でも売って金にするべきであった。悔やみきれぬ想いが、涙と声になって男の身体からとめどなく出ていく。泣けども泣けども、涙が枯れることはなかった。

一匹の小さな白蛇がその男の様子をじっと見つめていた。白蛇は彼に恋心を抱いていた。困っている村人がいたら率先して助ける姿や、無益な殺生をしないこと、自分を見つけると優しく笑いかけてくれることなど、彼の優しさを心底愛おしく思っていた。

「もし……」

ついに白蛇は男に声をかけた。男が驚いて振り向くと、そこには女が立っていた。

まるで下界に降りてきた天女のように美しい女である。端正な顔立ちには儚げな表情を浮かべていて、まるで現実味がない。青い着物の上には白い羽織を(まと)っており、それがまるで天女の羽衣を連想させる。肌は着物と紛うほどに白く、サラサラと流れるような髪は艶やかで美しい。

心の臓がドキリと鳴り、まるで雪女でも見てしまったのように息を呑む男。気がつけば、涙は止まっていた。

女は、感覚を失うほどに蒼白になった男の顔と手を見て、まるで自らがつらい体験をしてきたかのような声音で問いかけた。

「そのような悲しい顔をされて、どうされたのですか」

鈴のような声が鳴る。轟々と滝が音を立てている中でも、しっかりと届くか細い声。いや、違う。その声を聞き逃さまいと男が神経を集中させていたのだ。

「母が、病で……」

そこまで答えて、束の間忘れていた悲しみが再び男を襲う。それ以上の言葉を紡げず、口を閉ざす男に「それは大変でしたね」と女が男の手を取り包み込む。温めるには女の手も冷えていたが、それでも今まで冷水に浸かっていた男にはどうしようもないほどに温かく、優しいものに思えた。

※本記事は、2021年12月刊行の書籍『残滓』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。