その頃、広島市内で果実業を営む高校時代の級友、丸田研三と再会し取引を開始した。丸田の父親は広島の果実業界の大物だったが、既に引退して家業は四人の息子たちが引き継いでいた。

三男坊の丸田は、折に触れ二人の兄から受ける処遇に愚痴を零し、弟の不利益を嘆いていた。しかし、丸田の言い分を聞く限りでは、恭平は二人の兄の計らいは至極当然に思え、同じ事象でも兄弟それぞれの立場によって、捉え方が異なるものだと痛感させられた。そして、弟に対してはもちろん、如何なる相手に対しても相手の立場に立って考え、感情に任せての言動は慎もうと自戒を繰り返していた。

二歳違いの恭平と修平は、子供の頃から仲の良い兄弟だった。恭平が小学校三年生、修平が一年生だった或る日、修平が泣きながら家に帰って来た。理由を訊くと、近所の六年生に苛められたと言う。バットを肩に担いで仇討ちに行った三十分後、返り討ちに遇った二人は、声を揃えて泣きながら、手を繋いで帰って来た。

あの事件こそ兄弟の原点として、今も恭平の脳裏に在る。

恭平は絵を描いたり作文を書いたりすることが好きだったが、修平は歌を歌い楽器を演奏することが得意で、小学校で入っていた合唱団では全国大会に出場し、中学では吹奏楽部の部長だった。

同じ高校に入学し吹奏楽部に入ろうとした修平を、恭平は強引にサッカー部に勧誘した。最上級生と新入部員としてサッカー部での活動を続けるうちに、恭平は改めて二人の性格と行動パターンの違いに気がついた。

恭平は負けず嫌いで目立ちたがり屋のくせに、案外な臆病者だった。臆病なことを自ら自覚していた恭平は、意識して大胆を装い自由闊達に振る舞っていた。当初は虚勢を張っての振る舞いに過ぎなかったが、少しずつ習い性になり、自分の所作が変わっていくのを愉しんでいた。

修平も同じように見栄っ張りだったが、生活の随所に不精な性格が顔を出し、優柔不断で中途半端な言動に終始していた。子供の頃は、こうした弟との違いに秘かな優越感を感じていたが、長じても自らを見詰め直し、改めようとしない修平に不安と苛立ちを覚えていた。

それでも恭平は「いざ!」となれば、何時でもバットを握り弟を守る覚悟を忘れたことはなかった。そして、二人が揃って泣く哀れな醜態は、二度と演じたくないと肝に銘じていた。

※本記事は、2021年11月刊行の書籍『挑戦のみ、よく奇跡を生む』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。