医業家時代(人生第二幕)

大学にいれば岡大医学部でなくても他大学で教授職に就くことは当時の私の実績からするとさほど難しいことではなかったと考えている。しかしその選択肢は私の頭の中にはなかった。大学を離れて実地医家として何かやりたい気持ちを抑えることが出来なかったのである。新天地で何かしたい、その衝動のみであった。

1994年56歳にして全国初の内科系リウマチ膠原病専門病院を立ち上げた。当時不治の病であった関節リウマチ、膠原病を対象とした。新規に立ち上げた病院は患者であふれ、気づけば全国の大学病院、大手病院を含めて集患数で2~3番手に付けていた。

開院5年目1999年に未来の医学と位置づけた健診業務に進出。4~5年の辛苦の末、成長軌道に乗り現在では西日本でトップの健診受診者数を維持している。私の人生の華であった時代である。

二つの中堅病院(200床以上)から院長で来ないかと声がかかる

その頃、岡山の私の遠縁になる病院と、週に一度アルバイトのために行っていた広島県の西条の病院から院長で来てくれないかとの声がかかっていた。日頃の会話の中で、私が大学を離れる意志を持っていると読まれてのことである。

私は広島にはリウマチ、膠原病の専門医がほとんどいず、無人の荒野といえば失礼であるが、活躍の場が十二分にあることを知っていた。私は西条中央病院の院長として行くことを決めた。この病院は、西条という田舎で急速に伸び周囲のやっかみの対象であった。地元医師会からいろいろ厳しい中傷にさらされ昼間は暇であるが、24時間365日体制を敷く救急病院で夜間は大変忙しい病院であった。

大学生活でマウスを相手にすることが多く、臨床の腕はさびていた。それらを取り返すべく約10年間救急医療の現場で臨床をやり直した。第一線の昼夜を問わぬ救急医療に触れ、臨床医として喜びを感じつつ我を忘れて頑張った。

臨床的勘を急速に取り戻し、大学の研究生活とは別の喜びを味わった。一方で大学に20年近く在籍していたため、学会と縁が切れず4年ほどは学会と厚生省の斑協力者の立場で掛け持ちの生活であった。

院長として社会の第一線の病院に入り、一番痛切に感じたことは私が社会人として未熟、即ち社会的常識からかなり乖離していると感じたことである。物事の決め方、考え方すべてにおいて社会から直接学びなおさねばならなかった。それほど私は大学時代特別の空間にいたということである。ご当人は気付いていないかもしれないが、このことは大学人全てに言えることでもあろう。

※本記事は、2021年9月刊行の書籍『心の赴くままに生きる 自由人として志高く生きた医師の奇跡の記録』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。