【前回の記事を読む】病院から苦情殺到。入院中の末吉の素行不良に妻は策略を立て…

赤線通いの皆勤賞!

末吉は、昼間食事をとるとき以外は、庭の見える見晴らしのいいリビングで過ごす。自分専用のソファーにもたれかかって、医者からも止められているタバコをお構いなく吸いながら、ボーッしている。そして、タバコの灰をソファーや床の絨毯に落として、焦がしているのにも気がつかずに、ウトウトとまどろんでいることが多い。

そんな末吉だが、夕方の四時を過ぎると、人が変わったように活気に満ちてくる。まず、嫁の勝代に用意させて、一番風呂に入った。そして早い夕飯を一人で一杯飲みながら、ゆっくりと一時間以上かけて食べた。そのあと六時になると、ソワソワしながら、毎日違う柄の洒落たジャケットに着替え、折り目のハッキリしたズボンをはいて、ワニ革のベルトをした。

家の座敷には末吉専用の、黒光りする鉄製の金庫が置いてあった。そこには、常時数百万円以上の札束が保管されていた。末吉は、毎日そこから一万円札数枚を無造作にクロコダイルの長財布に入れた。なお、この金庫から札束が減った分は、会社の金庫番でもある妻のフミが毎日補充していたので、札束が減ることは決してなかった。

京都関西の商家の娘であるフミにとって、何より安心できるのは、いつも家の中に現金である札束が積まれていることだった。末吉は、長財布をジャケットの内ポケットに押し入れて、髪の毛が薄くなった頭にシェパードチェクのハンチング帽をかぶると、ドラゴンの手彫りの彫刻がある木製のステッキを片手に、鼻歌を歌って腰を振りながら「赤線」と呼ばれる歓楽街に出かけて行った。

赤線とは、GHQによる公娼廃止指令(一九四六年)から、売春防止法の施行(一九五八年)までの間に、全国各地にあった半ば公認で売春が行われていた地域のことである。この地域は、戦前から警察では遊郭などの風俗営業が認められる地域を、地図に赤線で囲んで表示していたことから、こう呼ばれるようになったようだ。

赤線内の売春カフェーなどは、売春防止法の完全施行を控え、一斉に廃業した。店舗は、バーやスナック、料亭、キャバレーなどの飲食店に転向するもの、旅館、ラブホテル、ソープランド、公衆浴場、アパート、下宿屋になるもの、密かに風俗営業を続けるものなどさまざまであった。いずれにせよ、西方市の赤線は、米軍関係者、世界各国からの労働者、地元で商売をしている旦那衆、会社の社長から若者まで、あらゆる人たちが集まる歓楽街になっていった。